kumo


 待つ行為がこれほど辛いと感じた経験は、黒羽にはなかった。
 待つ事自体にさして重要性はない。それが辛い。
 先へ進みたくとも、待たなければならない。それが辛い。
 待った時間に見合うだけの知らせがないかもしれない事が、辛い。
 待った揚げ句に、全てが無為になるかもしれない事が、辛い。
 待った事が仇になるかもしれない事が、辛い。
 彼も、自身の役目の重要さは分かっていた。沙々女の捜索に奔走する隊士達からの連絡内容を吟味し、直ぐに次なる行動に備えて、指示を与える。その判断の正確さと素早さこそが必要とされていた。
 その為に、ここにいる。しかし、いっかな求める報告は何ひとつなされないでいる。
 水の一滴が落ちる様子さえ止って見える、進展のなさ。焦れる中、沙々女の安否が気遣われてならない。それは拷問を受けているに等しい感覚だった。
「状況は非常に悪い」
 彼等に告げた稲田の言葉に、偽りはないだろう。否、それ以上に、最悪、というべきかもしれない。聞かずとも、菊と同じ者によって沙々女が勾引かされたのだ、と誰もが悟った。
「俺の責任だ」
 呟くように言った声が耳に残る。
 それはまんまと出し抜かれた悔しさよりも、苦渋に満ちていた。
 もし、沙々女が菊と同じ事になりでもしたら、と想像するだけで、黒羽も胸を掻き毟りたくなる。だが、こういう時にこそ、冷静さを欠いてはならない。そう己の心に言い聞かせるくらいには分かっているし、それだけの経験を、彼も積んできた筈だった。
 これ以上、後手に回る事なくすみやかに沙々女を取り戻すには、その前に、色々な根回しと準備が必要だった。今、稲田はその為に走り回っている。
 他の隊士たちも、手掛かりを求めて捜索に当っている。稲田からの連絡を受けた他の隊の隊士たちですら。
 しかし、自分は、このまま何も出来ないのではないのか。菊の時と同じように、手遅れになるのではないのか。
 掠める思いに、握る袴の皺も深くなる。
 ――沙々女さん……
 今はただ、無事で、と祈るしか出来ない。
 どれだけ待っても、手を尽くしても、たとえ、沙々女が生きて戻ったとしても、辛い結果になるかもしれないと思うだけで、黒羽は身を切られるかのように辛かった。

「一丿隊水無瀬よりの通達です」
 稲田が不在となってそうも経たない内、一変した状況に黒羽は青ざめた。
「現在、当隊の世話係の娘が行方知れずになっている旨、一丿隊へも連絡がいっている筈ですが」
「勿論、それは承知しています。各隊へはその捜索も含めた通達となっています」
 目の前の玻璃の瞳は感情の色を映すことなく、淡々と答えた。
「しかし、余りにも急な話ではありませんか、四隊合同による全日態勢で亞所周辺の警備とは」
「黒羽くん、落ち着き給え」
 一丿隊より使いで来た沢木は、動揺する黒羽を冷静な口調で諌めた。
「君たちの心配は承知しています。が、ここはこちらに従って頂きたい。事は二丿隊だけの問題ではない。一丿隊では、これまで発見された笹舟の位置、水の流れより、亞所が標的と確信しています。亞所が多数のあやかしに襲われるような事があれば、都全体が混乱する。これを防ぐのは我々、護戈の役目です」
「しかし、それでは……」
「沙々女さんの失踪については、娘殺しの一件と深く関りがあり、また笹舟の件とも無関係ではない。水無瀬はそう考えています。故にこの働きかけにより、下手人になんらかの動きが見られる可能性が高いとみています。その中で行方が分かる事もあるでしょう。これまでの手口も、巧妙に仕組まれたものばかりだ。当てなく捜したところで見付かる可能性は低い。薄々、君もそれを感じているのではないですか」それに、と付け加える。「これは協力要請ではない。総帥よりの命でもあります」
 差し出された賦豈老の名と花押の記された命令書を前に、それ以上の反論を黒羽は持たなかった。
 命令書は昨夜から今朝にかけて用意されたものに違いなかった。その上で、沙々女の失踪を聞いた水無瀬は彼等が直ぐに納得しないのを分かって、沢木を使いとしたのだろう。
「……二丿隊、承りました」
 頭を下げる黒羽の前に、一丿隊副隊長は静かに頷いた。

 その後、黒羽は沙々女の捜索にあたる二丿隊隊士たちを呼び戻し、一丿隊からの通達を伝えた。
 隊士たちは、寝耳に水の話に一頻り騒ぎもしたが総帥よりの命となれば無視することもかなわず、渋々、従うしかなかった。
 だが、それにしても沙々女を見捨てるような真似も出来ず、隊の半分は亞所の警備につき、残り半分が交代で捜索に出ることでその場は収まった。
 じりじりと炙られるに似た焦りが、黒羽たちを苛んでいた。
 沙々女の捜索にしても、一向になんの収穫も得られないでいる。
 僅かずつ心を蝕まれる思いを抱きながら、黒羽はじっと待っていた。
 稲田が戻れば、まだ何らかの打開策が見付かるかもしれない、という淡い期待を抱いて。

 昼過ぎ、詰所に戻った白羽織のその背に、黒羽は追い縋った。
「隊長!」
 何度呼びかけても答えはなく、ちらと振り返る事すらしない。まるで、彼の声など聞こえていないかのようだ。
 ともすると、肩を掴んで無理矢理にでも振り返りさせたくなる手を、黒羽はきつく握っていた。
「隊長!」
 次第に荒くなる呼びかけにも、先行く足が止る事はなかった。
「稲田さんッ!」
 呼びかけに応じてゆっくりと振り返ったその顔は、これまで見た事もなく暗く思い詰めた表情をしていた。


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