kumo


 捜索で未だ何の収穫も得られないでいた黒羽と二丿隊隊士たちは、彼等の上司を信じていた。だが、昼過ぎ、亞所から戻ったばかりの稲田から下された指示は、意外なものだった。
「沙々女ちゃんの捜索は、ここで一旦、中断とする。一丿隊水無瀬隊長の指揮に従い、亞所警備に従事する。場合によっては長期戦も予想される。隊内部、外部とも連絡を密にして協調するよう、各自、心して任に当ってくれ」
 そして、あやかしが出ればどんな方法を使ってでもその場で片付けろ、取り逃すな、と普段に増してきっぱりと稲田は命じた。
 その場にいた二丿隊隊士は、一様に騒めいた。
「沙々女ちゃんはどうするんですか。このまま見捨て置くつもりではないでしょう!」
 出て然る可き問い掛けだった。
 稲田は静かに息を深く吸って答えた。
「勿論、そんな事はしない。あの娘は必ず見付け出す。そして、無事に連れ戻す」
「俺たちにも手伝わせて下さい」
 声を大きくして佐久間が申し出れば、
「駄目だ」
「何故ですか!?」
 詰所全体が、表皮を焦がすような刺々しい空気に包まれた。
 稲田は厳しいとも言える表情で、声をあげる隊士たちを見回した。その視線を受けて、あがる声も潜まる。それを待って稲田は、それまで隊士たちには伏せてきた内容を口にした。
「今回、一丿隊の調査により、笹舟の目標が亞所である事にほぼ間違いがない事が分かった。そして、寮で起きた事件と娘殺しの件にも関りがあるとみられている。おそらく、沙々女ちゃんを勾引かしたのも同じ手によるものだろう」
 ざわり、と肌を撫でるような気が流れた。
「下手人の目的は今のところは不明だ。しかし、下手に刺激しては、あの娘の身に危険が及ぶことを早めるかもしれない。だからと言って、このまま手をこまねいているわけにもいかない。我々の手だけではなく、市中護戈全隊で行われるこの策は、その点でも適っていると思われる。直接、捜索に関らずとも、協力するよう頼む」
 そう言われて、反論できる者はいなかった。
「まず、我々は、全力でこれ以上の悪逆非道な行為が行われる事を阻止し、都を護らなければならない。それが任だ。以上だ」
 立ち上がった稲田を止める者はいなかった。黒羽だけがその後を追った。
 隊長、と何度呼びかけても振り返らない背に追い縋る。
「稲田さんッ!」
 普段、滅多に使う事のない隊長室の前に立ち止まった白羽織が、やっと彼の方を振り返った。
「どうか私だけでも、沙々女さんの救出の任につかせて下さい。お願いします」
 稲田がこの先、どうするつもりか、黒羽には手に取るように分かった。
 答えはなかった。そのまま襖を開け、室内に入る。許しを得ないまま、黒羽も後に続いた。
「隊長!」
「だめだ」
「ひとりでされるつもりなんでしょう。同行させて下さい」
「不在の間、隊を任せると言った」
「ならば、私を行かせて下さい」
「だめだ」
「何故ですか」
「おまえには無理だからだ」
 一言の下に言い捨てられる。
「それは、私が未熟だからですか」
「そうじゃない」
 稲田の手が、隅に置かれた刀掛けから一振りの大刀を取った。そして、腰にさしてあったものと取り換えた。
 その刀は手入れはされているようだったが、新しいわけでもなく、何の変哲もない刀にしか見えなかった。鞘に深く残る傷から随分と使い込まれた様子ではあった。
「では、何故」
 再度の黒羽の問いに、稲田は腰の差し具合を確かめながら答えた。
「黒羽、おまえには斬れるか。目の前で、おまえと同じく骨肉を持ち、呼吸し生きている者に向かって。或いは、素手の者を相手にして躊躇うことなく斬り掛かれるか」
 気圧されたわけでもなく、黒羽の身体は僅かに退いた。稲田は、ちら、とそれを見て、瞳を伏せた。
「無理だろうな。出来たとしても、俺もおまえにそんな真似はさせたくない」
「だから、ご自身で行かれると言うのですか。けれど、隊長も人を斬った事など、」
「昔、あの娘の母親を殺した。この刀でな」
 いささかも躊躇いない答えに、聞く者の瞳も見開かれる。
 抜き放たれた刃毀れひとつない刀身ではあったが、黒羽は明らかに自分の腰にあるそれとの違いを見て取った。
 強ばる表情を前に、稲田は薄く笑った。
「どれだけ拭っても、ついた曇りを消すことは出来なかった。御霊も感じられないだろう? 一度、人の血を吸って穢れてしまった刀ではあやかしは倒せない。こいつは、ただの人殺しの道具だ」
 可哀想に、と憐れむ言葉を呟いた。
 震えそうになる声を、黒羽は必死で押さえようとした。
「何か理由あっての事だったんでしょう」
 稲田の視線は、刃に向けられたまま動かなかった。
「どんな理由があったとしても、人を殺めた事に変わりはない。仕方なかったかもしれないが、過ちだったと思う。死んだ人間は生き返らないし、この刀も元には戻らない。そして、一生、俺から『修羅』の名は消えない。他の誰が知らずとも、己が知っているからだ」自嘲するでもなく、護戈の蔑称を稲田は淡々と口にした。「いいか、黒羽。俺たちは護戈だ。たとえ、人を護る為であったとしても、人を殺める事は許されない。本来ならば、その禁を破った俺は、隊を率いるどころか、護戈である事も許されない。だが、世の中、奇麗事では済まない事が往々にしてある。立派な御託を並べたところで、現実の前では塵に等しいなんてことは幾らでもある。だがな、それはいい加減にして良いって事じゃないんだ」
 狡い、と黒羽は思った。狡い言い方だ、と。
 こんな言い方をされれば、庇うしかないではないか、と心の片隅で思う。
「これは、俺なりのけじめだ。代わってやる気はない。俺はこの身に代えても必ずあの娘を助ける。そして、部下に人殺しをさせるかもしれない命令は下さない。これは、隊を任された者の矜持と心得る」
 何をどう言っても無駄、と思わせた。やはり、稲田は狡い、と黒羽は思う。だが、今の自分の気持ちをどう纏めれば良いのか、口にすれば良いのか、彼には分からなかった。
 ――和真……
 あの友ならば、なんと答えるだろうか。それでも、沙々女を助けに行くと言うだろうか。それとも……
 胸中に生じた棘《いばら》の塊に引き裂かれながら、黒羽は稲田に背を向けていた。密集した棘が黒く身体を侵食していくのを感じる。それでも、口だけは、分かりました、と答えていた。
「必ず、沙々女さんを助け出して下さい。そして、隊長も無事に戻って来て下さい」
 なんという奇麗事か。この状況で、何故、このような言葉が出てきたのか、彼自身でさえ呆然とする。
 小さな声の、「悪いな」という言葉と「ありがとう」という返事を耳にした。それが黒羽には、役立たずと言われたように聞こえた。
 何の為の護戈か! 何の為の副官か!?
 咽喉の奥からせり上がってきた塊を、黒羽は口から出る寸前で呑み込んだ。

 後は、逃げるように部屋を出ていた。


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