kumo


 まったく年を取るというのは嫌になる、と黒羽の去った後の部屋で、稲田はひとり思う。
 あの雨の夜から青年の苦しげな表情の晴れたところがないのを気付きながら、労るどころか更に泥をかける真似をしている。だが、この状況で、稲田も他人に心配ってやる余裕を持たない。
 それにしても、嘘をついたわけではないが、奇麗事に誤魔化した分だけ口の中が苦い。一回り以上年下の青年に甘えっぱなしだ、と自嘲した。

「守護さま、どうかお慈悲を。憐れな母親の末期の願いと思し召してお聞き届け下さいませ。どうか、この娘をお護り下さい。この娘は寿《ほがい》と呪を合わせ持ち生まれてきた娘。護る者なくしては、到底これより先、生きるもかなわないでしょう。どうかお願いです。せめて、幼きこの娘が人なる心を知るまで、この母の代わりに見守ってやって下さいませ。どうか、地の上に繋ぎ留め置き下さいませ。お願いでございます。守護さま、どうかお慈悲を……」
 白い肌を自らの血で赤く染め、末期の息の下、霞む青い瞳で訴える女の顔は、それでも美しいと思わせた。
 女の名前は、翡翠と言った。いつからか、まだ小さな娘をひとり連れて、夕賀宿に流れ住み着いていた。
 容姿の美しさもさる事ながら、土地柄に似付かわしくない品の良さと濁りのない澄んだ気を纏っていた。
 元はどこぞの国の姫であったろうと言う者もいた。理由あって駆け落ちでもしたのだろうが、その道行きで夫を亡くしたに違いないと。しかし、本当の事は誰も知らなかった。女は自身のことについては、何も語ろうとはしなかったから。
 だが、語らずとも、微笑みも優しい情け深い性質に慕う者が多くいたようだ。たいそう娘を可愛がっていて、巡回途中に仲睦まじい様子を見かけたなどと、護戈仲間の間で、しばしば話題にものぼっていた。その話の輪の中に、稲田もいた。
 だが、その頃には、彼女は既に男に囲われる身だった。
 男は元々は、付近一帯の山持ちの地主で、その辺りでは知られた顔役のような存在だった。表では気前の良い素封家の顔をもっていたが、裏では己の欲を満たすためならば人を使い非道な真似も辞さない、と陰で囁かれる人物だった。罪に問おうにも、地方官吏からあちこちを金銭などで買収していて、捕縛もままならないと耳の端で聞いた。
 噂では、拒む女を手に入れる為に、かなりえげつない真似もしたらしい。女も泣く泣く言う事を聞かざるを得なかった、と聞いた。
 そして、あの日。やけに埃っぽく、山から吹き降りる風の音が耳につく日だった。
 稲田は羽鷲義雅に同行して、夕賀の宿の巡回の任についていた。その途中、道の真ん中にひとり怯えたようにへたり込む男の姿をみかけた。何事か、と近付いてみれば、いきなり袴に縋り付いてきた。
 褌姿の上から申し訳程度に着物を引掛けた姿に誰かと見れば、件の顔役の男だった。ぶよぶよと肉の弛んだ肥え太った身体を揺らすように震わせ、威厳もなにもあったものではなかった。みっともないまでに顔を歪ませながら目の前の家を指さした。
「ば、化け物……」
 女の暮らす家だった。
 直ぐ様、稲田は羽鷲と共に、中へと踏み込んだ。
 真っ先に、そこにいる筈の女と娘を捜したが、どこにも姿はない。それらしき気配は感じるのだが、何処にいるかまでは分からなかった。
 畳の表面を草鞋がこする感触と音を聞きながら、そろそろと周囲を警戒しながら足を進めた。
 女の暮す家は間口こそ狭かったが、奥行きのある造りになっていた。しかし、囲われる身にしては意外なほどに物が少なく、室内全体から香る焚き染められた香と一面に敷かれた畳のほかは、質素な暮らし振りが伺えた。
 稲田と羽鷲は抜いた刀を手に交互に動いては、ひと部屋づつ襖を開けて中の様子を伺った。拳ひとつ分の隙間から中を除き、注意深く気配をさぐる。
 音はない。微かに感じる人の気配にも強まった感はない。
 稲田は襖の金具に手をかけた。その時、
「稲田ッ!」
 羽鷲の叫び声がしたかしないかの刹那、襖が突き破られる音があった。
 咄嗟に身を退いた喉頚ぎりぎりを、黒く細い切先が掠めた。
 正に、間一髪。
 その鋭さを目の前にして、稲田の背筋にひやり、と流れるものがある。同時に鼓動が早く、大きく響き始めた。突き抜けてきた切先は、瞬く間に目の前から去った。
 だん、と音がして、羽鷲が襖を蹴り破った。畳敷きの間がふたりの前に広がる。だが、予想に反してそこには何も、誰もいなかった。だが、そんな筈はない。
 強ばる手はいよいよ固く、握る柄が汗で湿る。
 一歩。また、一歩、とふたりは倒れた襖を除けるようにして、部屋の中へ足を踏み入れた。
 じりじりと躙る足音も、高い心臓の音に掻き消される。瞬きさえも許されぬ緊張に、吐く息も浅く短いものになっていた。
 稲田と羽鷲は自然とお互いに背を向ける形で、部屋の中を油断なく見回す。
 音も気配もないそこに、影が舞い降りたのは、突然だった。
 はッ、という気合いの声と共に羽鷲の刀が振られた。数瞬遅れで振り返った稲田を撫で斬らんと、数本の刃が向かってくる。
 その動きが見えたわけではない。何が起きているのかも、分かっていたわけではなかった。本能だけで稲田は刀で受け止め、弾き返していた。培われた勘というものだったのかもしれない。
 弾いて直ぐに、それは身を翻して離れた位置に着地した。
 稲田の心臓がひとつ大きく跳ねた。
 羽鷲の息を呑む音が聞こえた。
 刀で弾いたもの。その正体が、今、彼等の目にはっきりと映っていた。四肢を広げ、床に這い蹲る低い姿勢から彼等を見上げていた。
 噎返る程に濃い瘴気を全身から放つそれは、これまで彼等が対峙した事のない異形のモノだった。しかし、あやかしと呼ぶには、それは人の形に似すぎていた。不思議なことに薄紅色の女物の長襦袢を身に着けている。とすれば、その体つきも女に見えてくる。しかし。
 ぬらり、と油を塗ったかのように照り返す赤い肌。猫の目の如き瞳孔。水色の虹彩を縁取る隈取りは黒々として、内に籠る毒を表しているかのようだ。
 刃は持たない。稲田を一度ならず脅かしたのは、触れるものすべてを切り刻まんばかりの手に連なる十本の長き爪。わずかな動きにさえ、耳障りな音をたてる。触れている畳表も既にけばだっている。そして、その間には、異様なまでに長い水かきが張ってみえた。
 その身体を覆う澱んだ沼を思わせる色の髪は長く乱れ、それ自体が生き物のようにうねっていた。
 その中央にあるのは、特徴的なひとつの標。額から伸びる一本の角。尖る先端に光を映す。
 ――鬼!
 あやかしの頂点に立つモノ。あやかしが行き着く先の異形。
 羽鷲も稲田も言葉として知ってはいても、未だ目にした経験はなかった。それでも、それが鬼に違いない事をふたりは同時に悟っていた。


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