kumo


 針のような瞳と目が合った途端、稲田は己の身体の芯を真っ二つに裂かれた心持ちがした。全身の毛穴から汗が吹き出し、がたがたと刀を持つ手が大きく震えて止らなくなった。沸き上がる怖れは止めどなく、初めて実戦であやかしに対峙した時に重なる。
「稲田、落ち着け」
 羽鷲の声が、耳に遠く聞こえた。
 かっ、と耳まで裂けた口が、彼に向かって威嚇するように開かれた。真っ赤な中に広がった黒き洞に、尖った牙が剥き出しになって見えた。
 喰われる!
 際まで張りつめた心の糸が途切れた瞬間だった。
 それからどうしたのだろう。稲田のそこからの記憶は、切れ切れの印象ばかりで曖昧だ。ただ、助かりたい一心で、刀を振るっていたことは覚えている。
 間断なく、太鼓の音が響いていた。あれは、己が心臓が鳴り響く音だったか。
 辛うじてその場に踏み止まっていられたのは、羽鷲がいてくれたからこそだろう。他の者だったら、尻を捲くってとうに逃げ出していたかもしれない。それぐらい、恐ろしかった。
 異形のものは、振り下ろされる二振りの刀の間を掻潜りながら、家中の天井や壁までも伝って走り、身軽に飛び回りながら、彼等を翻弄した。
 彼等を捕えようと蠢く、濃緑色の髪。隙あらば、皮膚を切り裂き貫かんとする爪の刃。辺り一面が墨に染まるかのような瘴気。
 しかし、ついに羽鷲の剣が鬼を追詰め、捉えた。
 斬付けたと同時に、稲田は背後から刀でその赤黒い肢体の真ん中を貫いていた。
 ふたりに挟まれ刺し貫かれながら、苦しげな呻き声が洩れる。もがく手が、稲田の刀を持つ左腕を掠めた。稲田は、更に深く刀を抉り刺す。
 ――往《い》ね!
 ただ、今ある恐怖を終らせんが為に。あるのは、それだけだった。
 と、突然、高い悲鳴が響いた。
 いつからいたのか、羽鷲の背後に立ち竦む幼女の姿が目に入った。引き攣った幼い顔が、稲田たちを見ていた。
 ふいに、稲田の背筋に、ぞっ、とするものが走った。
 殺気だ。しかも、尋常ならざるほどの。かまいたちのような無数の見えない刃が全身に突き刺さってくるような感覚だった。痛みさえ伴うほどの、それだけで息の根を止められそうなくらいな激しい怒りを感じた。
「ささ、め……」耳元に女の声が聞こえた。「来ちゃだめ……」
 異形の者の肩越しに、蒼白に強ばった羽鷲の顔があった。驚きとも恐怖ともつかない表情をしていた。
 なにしたわけでもなく、稲田の膝が崩れ折れそうになった。よろけながらも辛うじて踏ん張り、突き立てていた刀を抜いた。
 どう、と鬼が畳の上に倒れ込んだ。濃い血の匂いをさせた黒髪が、稲田の鼻先を掠めていった。
「ささめ、だめよ」
 また、ちいさく女の声が耳元を通り過ぎて行ったような気がした。
 が、それよりも、稲田の意識と刀は次なる敵へと向けられていた。
 目の前に佇む幼い娘に。
 爛々と輝く紅の色の瞳が彼を見ていた。黒髪だった筈の髪が、鬼と同じ色に変色していた。しかし、肌の色は変わることなく、角もない。外見は可愛らしい少女の姿であったが、その背後にある身の丈を遥に超えた得体の知れぬ異質な存在を感じた。底の見えない深淵を垣間見たかのような畏怖を抱いた。先刻の鬼よりも荒々しく、巨大なものへと変貌する気迫。圧倒的な力。
 まだ年端も行かぬ少女に、刃ひとつ持たぬ丸腰相手に、稲田は射竦められていた。一歩たりとも動けず、一向に定まらぬ切先だけを少女に向け、死にたくない、という気持だけでそこに立っていた。
 なにも考えることが出来なかった。なにも見ようとはしていなかった。
 それが出来る余裕があれば、結果は変わっていただろうか?
 僅かに足が前に動いた。すると、あとは勢いのままに床を蹴っていた。咽喉を通っていく叫び声が、別人のそれに聞こえた。
 少女は向かってくる稲田を睨み据えたまま、微動だにしなかった。
 と、その前に素早く立ちふさがる者がいた。そして、衝撃があって、跳ね返される鋼の高い音がした。
「稲田ッ、よせっ!」
「羽鷲さん!」
「落ち着くんだ!」
「退いて下さいッ! このままでは殺られるッ!」
 再び、刃が重なった。
「稲田享輔ッ! 鎮まれいッ!」
 怒鳴る声に、突然、耳の奥が震える感触を感じた。すっ、と頭に上っていた血が下がるのを感じた。手足が重くなり、動きが止った。止められた。言葉ひとつ、言霊が使われたと悟った時には、稲田の戦意は跡形なく喪失していた。だが、未だ刀を退くことだけは出来ずにいた。
「早く、母上のもとに行きなさい!」
 何を言っている、と思った。羽鷲が何を考えているのか、静止した状態の稲田にはさっぱり分からなかった。彼の脇をちいさな影が走り抜けていった。
「かあさま、かあさま!」
 女の子の泣き声が聞こえた。
「こっちに来て。おねがい、ささめ」
「稲田」真剣を交えているとは思えないほど穏やかな声で、羽鷲に呼ばれた。「稲田、もういい。終ったんだ。退け」
「羽鷲さん……」
 顔をあげれば、哀しそうな、苦渋に満ちた表情とぶつかった。
「かあさま、かあさま、いたい? くるしい?」
「沙々女、ごめんね。みんな母さまが悪いの。母さまが弱かったから。だから、泣かないで。そんなに泣いてはだめ。それに、この方たちを怒らないで。許してあげて。母さまの為にも、ね」
 背後から、娘に言い聞かせる女のか細い声が耳に届いた。
「稲田」
 ふいに、稲田は左腕に痛みを感じた。肘から先に、点々と血が滴り落ちているのに気付いた。ついに力が入らなくなり、刀を取り落としていた。
「その鞠を、ずっと持っているんですよ。母さまの形見と思って大事にしてね。母さまは、もう傍にはいられないけれど、優しい強い子になりなさい。なにがあっても人を憎んだり、恨んだりしないで」声は掠れ、途切れながらの声が続いた。「良い子ね、沙々女。本当に、良い子……」
 その時になって、漸く、稲田は己がなにを斬ったのか気付いた。
「守護さま」、と呼ぶ声がして、ついに振り返った。
 赤く染まった畳の上に伏した女が、求める様に手を伸ばしていた。指先まで、綺麗な赤い色に染まっていた。その色は美しい女の肌に、一層、鮮やかに映った。
「お願いがございます。憐れな母親の末期の願いと思し召してお聞き届け下さいませ……」


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