kumo


 何故、女があのような異形に変化したのか、稲田には未だ分からない。そして、どれだけ調べようとも女が何者で、何処から来たのかも分からないままだった。
 頷いた羽鷲を見て女は、「これで楽になれる、あの御方に会いに行ける」、と最期に言い残して息を引取った。微笑みさえ浮かべて、不思議なほどに穏やかな顔をしていた。
 そして、ひとり小さな娘だけが残された。
 利き腕に深い傷を負った稲田は、羽鷲が救援を呼んでくるまでのあいだ、己が殺した女の骸とその傍から離れようとしない少女と共に過さなければならなかった。
 あれほど鳴っていた鼓動は治まり、鴉の啼く声ばかりが煩く聞こえた。
 どれだけの刻《とき》が過ぎたのか。少女は冷たくなっていく母親を眺め、鞠を抱えたまま黙って座り込んでいた。涙することなく、じっと傍にいた。その様子は、途方に暮れているようにも見えた。
 そこに、先ほど稲田が感じた怒りも殺意も感じなかった。淡い墨の髪色の、弱々しくも稚い少女にしか見えない。
 一体、あれはなんだったのか。変化したと思えたのは、気の昂ぶった彼の見間違いだったのだろうか。そう疑いもする。
 訊ねたところで、この少女に答えられるものではないだろうし、答えないだろう。それに、今更、彼にかけられる言葉などあろう筈がなかった。気まずい空気のなか、一言も言葉をかわすことなく時を過した。
 そうしている内、羽鷲が戻ってきた。何人か見慣れない顔の男たちを連れていた。
「後は、舵槻の方に任せることになった」
「この娘はどうしますか」
 小声で稲田が訊ねると、羽鷲は静かに瞳を伏せ、「こちらで連れていく」、と答えた。
「ですが、」
「このままひとりにはしておけない。それに、母親との約束がある」
 そして、娘を護ってくれ、と言い残した女とその娘に視線を向けた。
 羽鷲は座り込む少女に近付くと、「沙々女」、と呼んだ。小さな頭が擡《もた》げられ、羽鷲を見上げた。
「私たちと一緒においで」
 すると少女は、不思議と感じるほどに聞き分けよく、鞠を抱えて立ち上がった。
「母上に最後のお別れを」
 羽鷲の促しに、少女は首を横に振った。
「かあさま、もう、とうさまに会いに行った」
 ぽつり、と小さな声でそう答えた。幼くとも、死というものを知っているかのような口振りだった。
「……そうか。では、行こうか」
 小さな手を引き、羽鷲はゆっくりとした歩調で歩き始めた。手を取られた娘はそれに従いながら、もう一度、横たわる母親を振り返ると、引かれながらも部屋を出るまで眺め続けた。
 稲田も痛む左腕を庇いながら、そのあとに続いた。
 少女を連れて七丿隊分舎に戻った彼等を迎えた他の隊士たちは、かなり驚いた様子をみせたが、それでも何も言うこともなく羽鷲の指示に従った。貝塚などは、或程度は何が起きたか察したようだったが、それを口にすることはなかった。少女は三組の寮に暮らし、隊士たちは戸惑いながらも、少女を受入れた。
 その後、事の詳細を榊に報告をした上で、評定省の裁可を待つことになった。少女が変化しかけた事については、どう言えば良いのか分からず、確証もなかった為に稲田は黙した。羽鷲もまた、何も言わなかったようだ。そして、彼等の罪が問われることはなかった。
 だが、利き腕を失った稲田としては、人の命を奪った呵責もあり、護戈を辞す事を申し出た。だが、羽鷲の引き留めにあった。
「護戈を辞したからといって、罪が消えることはない」
 羽鷲は、腕の繃帯も解けぬままの稲田に厳しい一言で答えた。
「しかし、俺には……」
「死者との盟約を違えるつもりか。護戈衆でなければ護ることもかなわないだろう、並みではないあの娘を」
 稲田は、はっ、と俯いていた顔をあげた。真剣な眼差しが稲田を見ていた。
「私はあの娘を引取るつもりだ」
 女が囲っていた男が当然の権利であるとばかりに、『娘を返せ』、と繰り返ししつこく訴えてきていた。
 当の少女が、そればかりは、と嫌がる素振りも露にした事で、羽鷲はそれを突っぱね、渡さないための努力を払っていた。しかし、それにも赤の他人である彼等には限界がある。娘を渡さない為の大義名分が必要だった。
 羽鷲は言った。
「護戈という明日をも知れぬ身で傍にいる事はかなわずとも、養女とする認可ならば受けられるだろう。そうした上で、兄夫婦のところへ預けようと思う。同じ年頃のこども達もいるし、両親の揃った家に暮すことは、幼いあの娘にとっても良いだろうから」
「しかし、いつ何時、何かの拍子にあの娘が変化でもしたら、今度は関係ないご家族まで巻込まれやしませんか」、と危ぶむ稲田に「大丈夫だ」、と答えた。
「あの娘は二度と、あんな事にはならないよ。最も哀しいことを既に経験してしまったのだし、あんなに大人しくて聞き分けの良い子は、滅多にいないだろう。それに、実家には和真がいる。素養のあるあの子なら沙々女のことを分かって、護ってもやれるだろう」幼い頃から素養を顕現させた甥を指して言った。「だから、もし、私になにかあった時は、稲田、おまえも力になってやって欲しい。あの娘の母親の命を奪った罪を贖う意味でも」
 そう言われて返す言葉は、稲田にはなかった。評定省の役人ですら同席に退屈すると言われるほどの生真面目な性格の上司が、彼以上に苦悩していないわけがなかった。
 その結果、今がある。
 羽鷲が亡くなって、その娘の側近くで見守る事に決めたのは、稲田自身の考えだ。少女はまだこどもではあったが、奉公に出るには足りる年になっていた。
 会うまでは、怖れがあった。迷いもした。幾度となく逡巡を繰返した上で出した結論だった。だが、連れ帰る時、初めて沙々女の手を握った刹那、何とも言いようのない、泣きたくなるような感情を知った。握るのが怖くなるくらい小さな、柔らかい手だった。確実に、血の通う温もりがあった。
 大丈夫だ、とその時に感じた気持は、羽鷲にもあったのだろう。だから、引取ることに決めたのか、とその時になって稲田は思った。
 それから、沙々女の成長する姿を目の当たりにした。日々、大人びて娘らしくなっていく様を見るうち、幼少の頃より家族を持たなかった稲田が得られなかったものを教えてくれた。
 母親に似た面差しは美しく、ふとした気遣いの優しさに嬉しくなった。意外な芯の強さに、驚きもした。気を引こうとする若い隊士達に、若い頃の己を重ねて心配にもなった。
 同時に、さりげなく秘められた力に気付かされる度、背筋に走るものを思い出した。そして、ちら、とも微笑みをみせぬ表情のなさを見るにつけ、己のした仕打ちに心を痛め、哀しみを覚えた。
 いつしか、稲田にとって、沙々女は大事な娘になっていた。贖罪や義務は関係なくなっていた。
 だから、必ず己が命に代えても助ける、と利かぬ左手とふたたび手にした刀に固く誓う。
 だが。
「吉乃に会いてぇなぁ……」
 溜息と共に、つい、本音が出た。


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