kumo


 母さま、と呼ぶと、水音が聞こえた。
 ふ、と目が覚めれば周囲は薄暗く、静まり返っていた。何処だろうと見回そうにも、身体を荒縄できつく縛められ、首を僅かに動かすことしか出来ない。
 ああ、そうだった、自分は勾引かされたのだった、と沙々女は他人事のようにぼんやりと思い出した。表門を掃いている時に、帯締めに結わえ付けてあった鈴がなんとも言えず嫌な気配を発し始めたのに気付き、外したところをいきなり何者かに当て身をくらわされた。そして、次に気付いた時には、既にここに連れて来られていた。
 僅かに身じろいだ途端、皮膚に引き攣るような疼痛を感じた。
 薄い襦袢の上から締めつけた縄が、固い床の上で更に硬さを増して痛みを伴った。それだけではない。身体中につけられた傷の幾つかは熱をもって未だ脈打ち、布が擦れるだけでひりひりする。それに、肌から立ち昇る、嗅ぎ慣れない匂いも気になる。甘ったるくありながら、嗅ぐうちに舌に苦味を覚えるような下品な匂いだ。
 すべては、あの饅頭笠の僧侶たちが為したものだった。
 最初に目が覚めた時は、水の中だった。ゆらめき上る髪の先と陽の光が透けて見える水面を水中から見上げた。誰か――僧侶のひとりだったのだが、に抱えられ、澄んだ冷たさばかりの中に全身を浸されていた。
 水から抱え上げられ、岩と木々に囲まれた泉である事を知った。当り前に、見覚えのない場所だった。
 着物はいつの間にか、脱がされていた。外気に裸身を曝す彼女の周囲には、やはり僧侶たちがいたが、表情ひとつ変えることなく、一心にひとつの言葉を繰り返し唱えていた。

 だきにばさらだとばん、だきにばさらだとばん、だきにばさらだとばん……

 沙々女には意味は分からない言葉だったが、それで何があるというわけではなかった。ただ、逃げ出すことも出来ずに、風邪をひきそうな寒さに凍え、うち震えていた。
 僧侶はそのまま沙々女を泉から抱え出すと、何も言わず、岩の上に立たせて白い手ぬぐいで丁寧に濡れた身体を拭った。そして、予めそこに用意してあった金の器より香末を取り出し、両の掌で沙々女の全身に塗込めた。物を扱うように淡々と行う手つきは乱暴ではなかったが、何かの拍子に僧侶からゆらりと立ち昇る黒い靄のようなものに、沙々女の肌は自然と粟立った。
 それから沙々女に、有無を言わさず白の長襦袢を着させられたのち、この小屋へと担ぎ連れてこられては、傷つけられた。
 先ほどのものとは少し違う言葉も加えて唱えながら、床の上に押さえつけた沙々女の肌を先の尖った金の道具で傷つけ、かわるがわる流れ出る血を舐め取り、器に取った。
 鋭い痛みから身を捩る沙々女を前に、僧侶たちは一層、黒い靄を立ち昇らせ、舌を這わせる者は呻き声とも雄叫びともつかない声をあげながら、彼女の乳房を鷲掴み、肌に爪を立て、精を放ちながら、身の内にある獣を大きくしていった。
 ひとりなどは、気が触れたかのように口から泡を吹きながら、沙々女の未だ娘である証を穢そうとした。
 だが、それはなかった。
「この痴れ者がっ!」
 泉で沙々女を抱えていた、ひときわ大きな体格の僧侶が、拳で殴り飛ばしたからだ。
「間違いなくこの娘こそ我らが求めていた器。大望が前に台なしにするつもりかっ!」
 だが、殴られた僧侶がその言葉を聞くことはなかった。壁に叩き付けられた男の首はあらぬ方向へ折れ、既に息はなかった。そして、どこから現れたか、多数の妖狐がその身体に蝿のようにたかり、浮き出てきた魂やら霊となった身体に貪り食らい付いていた。
 異様な光景だった。
 しかし、そんな事があっても、僧侶たちには些細な出来事であったらしい。沙々女が途中、意識を失うまでは儀式は続けられていたと記憶している。
 こんな事をしてどんな意味があるのか、沙々女には分からなかった。ひとつ分かるのは、菊をあの様にしてしまったのと同じ者たちであるという事だ。稲田たちが捜している下手人なのだろう。
 菊も同じようなめに遭ったのだろうか。それで、あんな獣を身に憑かせてしまったのか。
 身に獣を飼う者たち。もう人ではないかもしれない。沙々女にとっては、僧侶たちの今の気配は、人よりも獣の方に近いものだ。あの男のような。
 ああ、だから、母の夢を見たのか、と沙々女はひとり得心した。
 あの男も黒い靄を身体から立ち昇らせては、沙々女の母を苦しめていた。偶に家にやって来ては、母に靄の塊を移し、やけにさっぱりとした表情で帰っていく。しかし、靄を移された母は暫くの間は苦しそうにして、沙々女に近付く事さえも禁じた。
 黒い靄が、『穢れ』というものである事は、のちに二丿隊に暮すようになってから知った。

「駄目よ、穢れが移るわ。今の沙々女には、猛毒になる。少しでも触れれば沙々女でなくなってしまう。そうしたら、母さまも生きていけない」

 母は、厳しいまでにそう言った。それ以外にも、ほかの黒い靄を出している者や物には、触れることを許さなかった。そして、次第に、普段からも母と手を繋ぐことさえ許されなくなった。
 しかし、それ以外は優しかったと思う。
 いつもその存在は沙々女の中にあり、母の仕草や言葉、行っていた事が彼女の行動のひとつの指針になっている。勿論、その後、彼女自身で覚えたことも沢山あるのだが、それでもどうすべきか考える時には、母の事を思い出して決めていた。

「あんたは、人の気持ってのが分からないのかい。本当に可愛げのない娘だ」

 羽鷲家に世話になっていた時に、下働きの女のひとりはなにかにつけ、幼い彼女にそう言った。
 どうやら、彼女が泣いたり笑ったりしない事が女の気に障ったらしい。何かと、立ち昇る黒い靄で叩かれる思いをした。手は使われなくとも、肌にひりつく感じがあった。時には、腑さえ痛くするほどだった。
 とは言え、沙々女もどうしたら良いのか分からない。皆、自然と表情というものが浮かぶものらしいが、沙々女にはそれがない。思い出せば、母がいた頃はあった覚えがあるのだが、いつからかなくなった。おそらく、母の形見の鞠と一緒になくなってしまったように思えるのだが、それも確かなことではない。

 あの鞠は、どこへいってしまったのだろう? いつも抱えていた筈なのに……

 そんな事を考えても、何があろうと、何が起ころうと、何も感じなかった。
 偶に、微かに胸の奥に何かが詰まったような感じを受ける時もあるのだが、それも僅かな間だけですぐに掻き消えてしまう。
 理由は沙々女にも分からない。どうしようもなかった。
 しかし、それでも、何も分からなかったわけではない。
 『声』が色々な事を教えてくれた。どうすれば良いのか、何が起きているのか、分からず立ち往生していると、小さく囁く声が聞こえる時があった。
 それが何かは、沙々女にも分からない。姿もなく、そよ、と吹く風に混じり、或いは、鳥の鳴き声に乗せて、時には、水の流れに合わせて聞こえてくる。だが、それに従って行動すれば、大抵の物事はうまく収まった。中には、意味の分からないものもあったが、放っておいたところで害をなすものでもなかった。
 二丿隊に移ってからは、そんな事もあまり気にする事もなかった。
 和真の叔父である義雅や稲田に会って初めて分かったが、護戈衆に黒い靄、穢れを発する者はいなかった。若い隊士たちが時折、何かを言ってくるが、沙々女に痛みを与えるような者はいなかった。寮にいる間は、偶さか聞こえる人ならざる者の声にも、そういうものはなくなった。
 和真をおいて、他には。


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