kumo



 不思議と和真だけは皆と違った。それは、幼い頃より変わらない。
 和真が下働きの女と同じような事を口にしたとしても、沙々女を痛めることはなかった。それどころか、傍にいれば悪いモノが寄ってくる事はなかったし、逆に逃げていくほどだ。特に、黒羽と一緒にいる時は尚更だ。ふたりが近くにいれば沙々女にはすぐに分かったし、離れていても何かあれば、逐一、声が教えてくれた。ふたりが喧嘩した時とか。

 和真が近くにいると、音がする。
 黒羽は、和真よりも、幾分、柔らかい音を持つ。
 ふたりが一緒にいると、僅かに違う澄んだ音がふたつ重なりあって、沙々女の心の中に響いて聞こえた。
 高い鋼を合わせたような、そよ風に揺れる風鈴のような音だ。初めて聴いたのはいつだったか。

「こんなところにいたのか。帰るぞ」

 おそらく、あの時だったと思う。
 幼い頃、羽鷲の家に預けられて間もない頃、ひとりで抜け出て神木の脇にしゃがみこんでいた時だ。和真が迎えに来て手を差し出した。その時……何故、ひとりでいたのだろう、と考える。

「そんなにうちが嫌なのか」

 和真に手を引かれて帰る道に訊ねられたが、そうではなかった事を覚えている。その手の感触と温もりと共に。それは、母のとも、和真の叔父とも違う感触だった。あれに触れて、沙々女は何かを思った。しかし、何を思ったのか。
 とても大切な事だと思うのだが、一向に思い出せない。
 だが、和真に何かを言われる度、それを思い出しそうになる。何かが胸の内を掠め過る。痛みはしないが、なんとも言えない落ち着かなさを覚える。
 そんな事を考えていると、微かな音がした。
 それは、外からではなく、沙々女の身の内より、時折、聞こえてくる。
 先ほど、茶碗一杯の水を与えられてより、聞こえてくるようになった。薄い飴細工の表面がひび割れるが如くのちりちりとした感触があって後に、はらり、と剥離する、そんなような音だ。その度に、どこかむず痒いような、くすぐったい感触があった。そして身を捩れば、また傷口が痛んだ。
 沙々女は、ふ、と人ならざるものの気配を感じ取った。
 それは音もなく、部屋の隅の影となって積まれた何かから立ち昇るように彼女の前に現れた。ぽつり、ぽつり、と青白い炎が、沙々女の周囲に灯が点るように浮かび上がった。だが、炎に明るさはなく、氷の冷たさばかりが感じられる。
 炎は次第に姿を変え、狐となった。十匹以上はいるだろうか。尾を垂らして前脚を揃えては、沙々女を取り囲んだ。どうやら、彼女を襲うつもりはないらしい。
 しげしげと正面に座る一匹の狐を見れば、狐は床に低く頭を垂れた。それ以外の狐は恭順の意を示すかのように床に伏せた。
『姿が見えるか、娘御よ。声も届いておろうか』
 再び、頭をあげた狐が人の言葉を発した。少ししゃがれてはいるが、落ち着きのある男の声だ。
 沙々女は僅かに顎を引く事で、小さく頷いた。
『拙僧は雪按《せつあん》と申す者。嘗ては、血肉を持った人の身であった。故あって仏道に身を置き、あの者の師を名乗ったこともござった。今はこのように彼岸の地にも行けぬまま魂魄を畜生道に堕し、囚われの身となってしもうたが、仏の加護あってか、辛うじて一魂のみ、こうして人であった頃の分別を残す事ができた』
 あの者、というのは、沙々女を勾引かした僧侶の誰かを指して言うのだろう。
『今ここに集いし者たちも、嘗てあの者と同じく拙僧の下にて修業していた者。決して、ぬしに危害を加えようというものではない。安心召されよ』狐はかたい言葉使いで諭すように言う。『実はこうして姿を現したは、ぬしにひとつ訊ねたき議あってのこと。今より一昔ほど前になるが、ここより離れた西の地、自身が夕賀宿に住まいしか、或いは血縁の者が暮すかしておられたか』
 沙々女はもう一度、頷いた。
 ああ、やはり、と雪按と名乗る狐は声に出して言った。
『ぬしによく似た娘御で、年の頃からゆけば、そなたの姉御か母御ほどの年になるかと思うが、存じておるか。青い瞳の美しい娘御であったが』
「……母さま」
 沙々女がそう答えると、雪按は両耳を伏せてうな垂れ、その口からは啜り泣くような声が洩れ聞こえてきた。
『やはり、これも仏の配剤であったか。では、ぬしは、あの時の女子』狐はそう言うと、両前脚を折って沙々女の前に伏せた。『幼かった故、覚えてはおらぬであろうが、生前、人であった頃、ぬしに会うた事がある。同じ仏道の道にあっても他の宗派よりは邪道と罵られ、蔑まれながらも修業を行う日々の中、そなたの母が恵んで下さる一杯の粥がどれほどに有り難かった事か。その横でぬしは、拙僧を黙って眺めておった。聞けば不遇の身でありながら、あるがままを受入れ、慈悲の心を忘れぬ母御の姿を見て初めて、悟りとはかく有るべしか、と感じ入ったものであった。以来、拙僧もかくあろうと修業を積んで参ったが、あのような者を容認した上、あまつさえ、なんの罪もなき人々を苦しめ、死に至らしめる事となった。自ら手を下したものではないにしろ、これは全て、きゃつに術を与えた拙僧の不徳の為すところ。畜生道に堕ちたは当然の報い。されど、ここでぬしとこうして巡り合えたは、僅かなりとも償いを致す節を設けて下さろうという仏の慈悲に違いない』
 雪按はそう言うと、金色の虹彩を真直ぐに沙々女に向けた。
『きゃつ、芳西は我が身同様、もとは祖国より戦を逃れて参った流民であると申すところを門下に加えた者。初めて会うた時は貧相な恰好をして、目ばかりが山犬のようにぎらついた姿に憐れみを覚えたものであった。我が門下に下って後は修法の会得に優れ、熱心に書物を読み、己の研鑽に勤しんでおった。これは良い弟子を持った、いずれは衆生の導き手にもなろうと、拙僧も目をかけたものであるが、実は、己の私欲を満たさんが為の術を学んでいたに過ぎなんだ。それを見抜けずにおった事が、返す返す悔やまれる。だが、先ほどぬしが受けた呪法、あれは拙僧も知らぬもの。或いは、芳西自身が編出したものやもしれぬ。そなたには分かったか、かの者たちが唱えていた真言が効力なきものであった事を』
 真言の意味が分からず、沙々女は首を横に傾げた。
 それに雪按は、咎めるでもなく言った。
『ぬしを傷つけ流れ出た血を舐め取る間、取り囲んだ者たちが唱えておったであろう』
 ああ、あの言葉の事か、と頷いた。
『真言はその仏の真の教義、心のあり方、また仏そのものの本質を短い言葉に収めたもの。心より願い、発する音も正しく、また、その言の葉の意味を真に理解しておらねば、如何な効力も加護も受けられぬ。きゃつらはその事すらも理解できておらぬという証であろう。今ある修法でさえ修められぬものに、新しく呪法を編出すことなど、到底、無理というもの』
「でも、獣が大きくなった……」
 沙々女の疑問の声に、雪按は、うむ、と頷いた。
『それこそが、ぬしの血に宿る力であったろう。人の身を離れて初めて分かるが、ぬしはいずれかの呪を受けておるのではないのか。きゃつらはその血に溶け込む呪を取り込み、悪心をより強きものへと育てた。されど、効き目がないとは言え、あのような無体な仕打ちを受けて尚、ぬしから感じられる気に乱れはなく、正気も保っておる。これまで同じ仕打ちを受けた者たちは耐えきれず、己を手放し、悪狐に身を委ねた。おそらく、ぬしにかかる呪がぬしを守ったに違いない。なに故か、どのような呪であるかまでは判ぜられぬが』
 沙々女は、わからない、と首を振った。
『皮肉にも、それあってきゃつめらが求める器とされたようであるが……しかし、不憫な娘よ。これまでさぞかし苦労もあったろう。その呪を解く術は拙僧も存ぜぬが、せめて、我ら、微力ながらその身を救う力になろうぞ』
「……ありがとう」
『礼には及ばぬ。ぬしの母御から受けた恩を返すまでのこと。とは言え、まずはここを出るにしても、辺り一帯は結界で封じられ、この小屋から出るのも難しきこと。それが出来たとしても、このような身の上であるが為、現人《うつせみ》で助けとなる者が必要。誰ぞ、既知の者で信頼できる者はおらぬか』
 と、言われて、沙々女の中に浮かぶ人物は限られている。
「護戈、二丿隊……」
 ひと括りにして答える。ふ、と和真の顔が思い浮かんだが、今は遠く離れた場所に行っている。助けになど来られよう筈もなかった。
『護戈か。確かに助けになろうが、この身を現せば逆に討たれてしまおうよ。なにか良い手立てはないものか』
 その時、答えるように、ちり、と微かな音が沙々女の耳に届けられた。


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