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拾壱


 太夫を相手に一晩を遊廓で過した峰唐山を真っ先に出迎えたのは、頭を低くした副官の薩田だった。
「眼を離した隙に惣三郎の奴が蔵から逃げ出して、どこかに……すいやせん!」
「ああ?」
 言われて峰唐山は、そういえば、とすっかり忘れていた存在を思い出した。
「まぁ、ほっとけ」
「いいんですかい」
「ガキがひとりで何できるってんだ。馬鹿じゃねぇなら、すぐに尻尾巻いて戻ってくるだろ。それより、おまえら、今の内に飯食って休んでおけ」
「けれど、一丿隊からの警備がありやすぜ。隊長の見初めたって娘っこもまだ見付かったって話もないですし」
「だからよ」、と峰唐山は、にやり、と凶悪な笑みを見せた。
「あの水無瀬が、祭りをやろうってんだ。どの程度のもんかは知らねぇが、せいぜい楽しませて貰わねぇとな。まあ、おんなの方はちと惜しいが他にもいるし、無事に見付かりゃ改めて口説きゃいい。別に初物にゃあこだわらねぇ」
「祭りっすか。いいっすねぇ」
 普段は察しが悪いと叱られる四丿隊副隊長も、鼻をひくつかせながら、にんまりと笑った。

 閉じこめられていた蔵を抜け出し、先の見えない宵闇を前にしても、少年の心は折れはしなかった。真直ぐな正義感の前には、視界の利かぬ事など何程でもなかった。
 ――たすけなきゃ。ぜったいに助けるんだ……
 蔵の隅に見付けた古い大刀を手に、小さな身体を暗がりに潜ませながら、ひたすら海風寺を目指した。幾つもの橋を渡り、水路を越えて、暁光の最初の一筋が射すより早く目的地を前にした。
 長く続く石段の脇、雑木林の下草が月の雫を、葉いっぱいに溜め込んでいた。ひんやりとした空気の中、薄く白い息を棚引かせて石段を一段、また、一段と上っていった。
 やっとの思いで頂上に辿り着いた時、流れ聞こえてくる読経の声に、惣三郎は初めて身体を強ばらせた。僧侶達が眠っている間に沙々女を見付けるつもりだったが、無理だったようだ。
 だが、果敢に心を奮い立たせ、物陰に身を隠しながら、素早く本堂裏の林へと移動した。その奥が怪しい、という話は、峰唐山らの会話から耳にしていた。
 一番手前にある樹に辿り着いた時、心臓が口から飛び出そうなぐらいの勢いで鳴っていた。少年は僅かな間だけ立ち止まって、深く呼吸をしながら昂ぶった気持ちを鎮めた。そして、両手に抱えた重みを強く握り締め、林の中に細く固められた獣道を外れ、一歩を踏みだした。
 灰色がかった木々の間を早足で進む。
 夜露が袴の裾を濡らしたが、気にはしなかった。ぶん、と耳元に煩く纏わりつく羽虫を手で追い払いながら、先を急いだ。何度も後ろを振り返り、ない人の姿を確認しては、前に進んだ。
 林は思っていた以上に深く、惣三郎は焦り始めていた。刀を持つ手は冷たく、なのに、汗ばんでいる。
 募る焦りと張りつめた緊張に限界が近付いた頃、漸く林の切れ間を見付け、少年は思わず駆け出していた。
 断崖を背に小さな泉が湧いていた。そして、その横には小さな小屋があった。
 上の方に小さな格子窓があるだけで物置にも見えるが、それにしては新しく、頑丈そうな造りをしていた。壁のあちこちに細い紙が貼られているのは、あやかし除けの札だろうか。見るからに怪しげな雰囲気だ。だが、周囲に見張る者はなく、人の気配や物音ひとつなかった。
 それとも、罠が?
 短く語る理性に従って、惣三郎は足音をたてないように注意深く建物に近付いた。壁に耳を付けるようにして、中からの音を捜した。だが、何も聞こえなかった。
 軋む板の音にびくつきながら戸に近付くと、そっ、と隙間を開けた。片目だけで中を覗くと、中は真っ暗だ。それでも、射しこんだ光に照らされる白い影があった。
 誰かいる。
 思いきって、より広く戸を開けた。
「沙々女さん!」
 縛られて横たわる娘の姿に、惣三郎は警戒心も忘れて駆け寄った。よくよく見れば、長襦袢からのぞく白い肌のあちこちに幾つもの浅い傷があった。下唇を噛み締めながら息を確かめると、首筋にあてた掌に微かに脈うつ感触があった。少年は、ほっ、としながら、ぐったりとする沙々女の身体を揺すった。
「しっかりして下さい! 助けに来ました! 四丿隊の和仁口惣三郎です!」
 睫毛が震え、娘の瞳がゆっくりと開いた。
「たすけ……」
「そうです。早くここを逃げましょう」
 惣三郎は手に抱えた刃を抜き、細い手足を縛る縄を切り落した。沙々女が起上るのを助けながら、部屋の壁際に積み上げられた夥しい数の髑髏に気付き、眼を背けた。
「さ、早く。あいつらが来るかもしれない。立てますか」
 頷き、よろけるように立ち上がった娘の手を取ると、引っ張るようにして外へ連れ出した。
 幸い、人の気配はなかった。
 周囲を見回しながら、沙々女の手を引いて、再び林の中へ分け入った。方角だけを見定めて、僧侶達と出くわさないようにと、来た時と同様に獣道を避けて通った。
 沙々女の足は遅く、常に引っ張る形になった。長く縛られていたせいだろうか、手が冷たい。しかし、休んでいる間はなかった。
 高くなった陽が木の葉の間を縫って、少年の瞳をちらちらと射た。その度、頭の芯がぼやける感覚があった。眠らず、ふだんよりも長い距離を歩いて来た疲れも出てきたのだろうか。それとも、半分、安心したせいもあるのかもしれない。
「みんな心配しています。何処にいるのかって、都中を探し回って。でも、もう大丈夫です。一緒に帰りましょう」
 惣三郎は、遠くなりかける意識を引き戻すために、そう呼びかけた。
 と、ふいに空気を切り裂くような高い鳥の鳴声が響き渡った。ぎくり、と惣三郎の肩が跳ね上がり、立ち止まった。


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