kumo


拾弐


「大丈夫」背後に立った娘が言った。「ただの鳥の鳴声だよ」
 娘の声が変わったように聞こえた。だが、懐かしさを感じる、聞き覚えのある声だった。
「臆病だねぇ。そんなんじゃ、護戈衆になれないよ。あやかしの一匹も倒せやしない」
 振り返って、惣三郎は息を呑んだ。
 そこには、姉と慕った娘が立っていた、もう一度、会いたいと願ったそのままの笑顔が向けられていた。浮いたそばかすも、少し上向きの鼻も、口元のほくろも。間違いようもない茜の顔だった。
 信じられなくも、自然と惣三郎の目に涙が溢れた。
「あかね……ねぇ……」
 心の片隅でぼんやりと妙だとは思った。しかし、湧き出る感情がそれを押し流してしまう。嘘でも良いと思った。もう一度、茜に会えたことが、惣三郎は嬉しくて仕方がなかった。
「いっぱい心配をかけたね。ごめんよ」働き者の肉付きの良い手が、彼の手を握りしめた。「また一緒にいられるよ。これからも、ずっと一緒さ」
「うん」
「もう寂しい事なんてないよ。あたいに任せておきな」
 しゃくりあげながら、うん、と頷きかけた惣三郎の耳に、別の娘の声が聞こえたような気がした。

 ――寂しい?

 ほんのりと甘い水の味が、咽喉の奥を流れていった。抱きしめられる感触と、軽く拍子をとる優しい手を背中に思い出した。
 惣三郎は、握る娘の手を見た。まるで真冬の水に長く浸けていたかのように冷えている。少年の体温を奪っても、尚も冷たい。心まで冷えるようだった。
 茜の手はもっと温かかった……そう気付いた時、惣三郎は茜の手を力いっぱいに振り払っていた。
「おまえは誰だっ!」
「なに言いだすんだい? あたいだよ。茜。あんなに可愛がってやったのに、忘れたのかい」
 どこから見ても茜そっくりの娘は、愛嬌を感じさせる笑顔でそう答えた。
「違うっ! 茜ねえちゃんは死んだ。殺されたんだ!」出してしまった言葉は、少年自身の心を強く痛めつけた。しかし、それに堪えても問い質す。「おまえは誰だ! あやかしかっ!」
 流れる涙を拭うことすら忘れて、差し伸べられる両手に後退りをした。
 その様子を見ながら、茜は楽しそうに笑った。
「そう、あやかしかもねぇ。死んだっていう方がさ」
「触るな!」
「あたい、ずっと助けが来るのを待ってたんだよ。きっと惣三郎が助けに来てくれる、そう信じて待ってたんだよ。そうしたら、やっと来てくれた」
「違うっ! そんなわけ……」
 答えながらも、惣三郎は、何がなんだか分からなくなっていた。
 目の前にいる娘は、どこから見ても茜に違いなかった。ここにいる茜こそが本物で、死んだ方の茜が、あやかしが化けたものだったのだろうか。
沙々女を助けたと思ったのは、勘違いで本物の茜を助けて連れて来たのだろうか。では、沙々女はどこに? 否、そもそも沙々女はあそこにいたのだろうか。
 同じ顔。同じ声。
 出来るなら、生きて目の前にいると信じたかった。
 茜の手が、惣三郎の頬を包み込むようにして撫でた。
「なに、怖がってるんだよ。あんたはあたいの弟みたいなもんなんだから、甘えていいんだよ。ねぇ、惣三郎」
 だが、冷たい手の感触が、微かな声で違うと少年に囁きかける。渦を巻きながらぼやける頭の中、捕われてはいけないと、ただひとつ冷静な声で繰り返し訴えていた。それは、偽物だ、と。
「惣三郎」
「ちがうっ!」
 目の前の手を振り払うように、惣三郎は叫んだ。
 ぎゃあ、という悲鳴の声があがった。何か黒い塊が少年の目の前を飛んで、少し離れた樹の根元に落ちた。惣三郎の足下の緑が、まだらの血の色に染まった。
「痛い! 痛いよ、惣三郎! なんでこんな事するのさっ! 酷いよっ!」
 茜が喚いた。その手の先の一方がなくなっていた。ぼたぼたと音をたてて血が流れ落ちていた。弾みで抜いてしまったのだろうか。惣三郎の手に抜き身の刀があった。
 ぽたり、と光る刃から、赤い雫が滴り落ちた。
 初めて人を、しかも、慕う者を斬った。そう気付いた時、少年は混乱した。これは、悪い夢に違いなかった。それでなければ、あやかしに化かされているのだ。
「惣三郎……」
「うるさいっ、うるさい、煩いっ! あっちへ行け! 消えろっ!」
「助けておくれよ、惣三郎。死んじゃうよ。やめておくれよ、お願いだよ……」
「黙れ、あやかしっ! だまれっ! 消えちまえっ!」
 惣三郎は腕が千切れそうな勢いで盲滅法に刀を振り回した。その目を固く瞑り、目の前の光景を拒絶する。しかし、耳だけはどうしようも塞ぐことは出来ない。
「やめておくれよぉ。痛いよ、惣三郎……」
「この、あやかしっ、あやかしめっ! 父さんと母さんを返せっ!」
「そうざぶろう……」
「おまえらなんか、みんな消えちまえっ! みんなおまえらのせいだっ! おまえたちがいるから、父さんも、母さんも、茜ねぇも、みんな、みんな……」
「違うよ」
 懐の裡にひっそりと忍び込むような声が、耳元で答えた。肌に染込むような、密やかな女の声だった。
 何故か、急に手が止まった。動けない。
「目を開けて見てごらんよ、ほら」
 促されるままに自然と閉じていた瞼も開く。何故か、逆らう気さえ起きない。途端、目の前が赤く染まった。赤い水溜まりの中に突っ伏す、長い髪の女の姿があった。
「可哀想にねぇ、可哀想に。あんなに助けてって言ったのに。痛いって言ったのに」
 襦袢は切り裂かれ、元からその色だったかのように赤い色に染まっている。投げ出された腕の先はなく、肌の色は虚ろな白さを極める。朱に半分浸る整った顔立ちが、まるで作り物であるかのように感じた。
「沙々女さ、」
 惣三郎の膝が震え、力が抜けた。これは、現実なのか、幻なのか。そんな事を考える余裕すらも奪い去られる。
「よくご覧。あんたが殺ったんだよ」
「そ、んな、」
 地面に尻餅をついた惣三郎は、有り得ない、と声もなく首を横に振った。沙々女を殺すなどあるわけがなかった。だが、しかし。
「じゃあ、その刀はなんなのさ。そんなに血に濡れて。身体中、真っ赤だ」
 俯けば少年の着物の表面は元の色をなくし、袖や袴と言わず手足までもがべったりと濡れている。鞘はどこへ行ったのだろう。手に持つ銀色の刃はぬらぬらと妖しく光り、脂の膜が虹色に光っている。
 とろり、と頬を流れ伝う感触があった。触れれば、指先がより鮮やかな朱を掬い上げた。
「ぼくが、殺した……?」
「そうだよ。惣三郎が殺したんだ」耳を撫でる声が答えた。「あんたは呪われた子だから。祟られているから、あんたが好きになる人はみんな死んじゃうんだよ。ほら、父さんや母さんだって」
 指さす方向に、少年の忘れようにも忘れられない光景が広がっていた。
 人形のように手足をもがれ、ばらばらに引き裂かれた両親の死体が散らばっていた。その脇に血だるまになって転がるのは、隣に住む健次郎だ。やはり、傍に倒れるおばさんの手を握ろうと、手が伸ばされている。だが、その腕は身体には繋がっていなかった。そして、その顔のすべてが、苦悶と苦痛に歪められている。
 少年の咽喉を、絹を裂くような甲高い悲鳴が通り過ぎていった。
「ねぇ、惣三郎、なんでさ」這い蹲って逃げ出そうとする少年の肩が捕まれる。「なんで、あたいを助けてくれなかったんだい。あたいを守ってくれるって言ったのに。あんなに呼んだのに」 
 肩ごしに振り返れば、全身につけられた傷から血の涙を流す娘が言った。その顔こそは土気色となっていても、茜だった。

「ねぇ、惣三郎、あんたがあたいを殺したんだ」

 何かが途切れる音がして、少年の目は闇に閉ざされた。


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