kumo


拾参


 落ち着かぬ空気の中、一夜明けた朝一番で、稲田は海風寺へと向かった。
 本日、海風寺に評定省の役人が入り、稲田は護衛役として同行することになった。
 そうなるようお膳立てをしたのは、一丿隊の水無瀬だ。

 昨日、沙々女の捜索を二丿隊隊士たちに任せて飛びだしていった稲田は、その足で亞所を訪れ、評定省寺社部へ公に海風寺への立ち入り捜索申請を提出したが、一蹴されていた。勿論、沙々女の所在を明らかにする為だったが、認められるものではなかった。こんな時に限って、寺社部との相性の悪さに足を引っ張られた形だった。
 しかし、それでも、と粘ろうとする稲田を止めた者こそ、水無瀬だった。水無瀬は稲田を、評定省の中でも水に関する事柄を扱う水調部へと連れていった。
 水調部といえば、評定省の中でも最も規模も大きく、役割が細分化された部だ。その中でも水質検査を主に扱う課をふたりは訪れた。
 そして、水無瀬は役人のひとりを呼んで、たまたま何かのついでに分かったような口調で言った。
 海風寺奥の、枯れていた泉がまた湧き出たらしい、と。
「詳しい事は知らないが、その昔、『玄武の霊泉』と言われて、社の本尊として祀られた泉だったと聞く。それが、また湧き出したと耳にしたもんで、知らせておくべきだと思ってね」
 役人は特に興味を引かれた様子もなく、感謝の言葉と調査を行う旨を事務的に答えた。
 水無瀬は頷き、言い添えた。
「そうだね。どんな封印も解いてしまう水だと伝えられているそうだし、早いとこ調べた方がいいだろう。間違って、あそこに居を構えている坊さんたちが飲んだり、誰かが悪用したりでもしたら、大変だろうからね」
 途端、役人は顔色を変えると、そそくさと上司の元へと向かった。慌ただしさを横目に、水無瀬はさも気の毒そうな顔をしながら、その場を一旦、立ち去った。
「大丈夫なの、あんなこと言っちゃって」
 稲田の問いに、水無瀬は、
「なあに、噂だからね。実際、なかったとしても問題ないさね」、と少しも意に介した様子なく答えた。
「すぐにあいつらが寺社部に掛け合って、立ち入り調査をすることになるだろう」
 そして、その通りになった。
 水質課の役人たちは怒った。
 寺社部はそんな大事な場所を、何故、いままで放置した揚げ句に素性も分からぬ坊主どもに貸し与えたのか、と如何にも役人らしい言い分を並べ立てた。当然、問題は部全体のものとなり、短時間のうちに様々な駆引きが行われたのち、急遽、寺社部立ち合いの下、水調部の立ち入り調査が行われる事が決定した。
 そこへ賦豈老がちゃっかりと顔を出して、護戈を一名、護衛として出すことを申し出て受けられた。当然のように、その役目は稲田に任された。
「爺さんまで引っ張り出して、どうするつもりだい」
 稲田の問いに、剣呑な雰囲気を漂わせた水無瀬は、
「人は使いようだ」
「薮から大蛇が出るかもしれないよ」
「望むところさ。ついでに襤褸も出させてやる」
 そして、稲田はその時初めて、既に水無瀬が都の護戈全隊士に亞所周辺の警戒を命じていた事を知った。
「こわいねぇ」
 そう言う稲田の顔には、微塵の笑顔もなかった。

 海風寺。その前身は、北の玄武を祀る社であった。
 奥院とする場所に湧く玄武の霊泉を祀った社であった。
 ひと度その泉の水を掛ければ、どんなに固い封印式が施されていようと、たちどころに解かれ、また、人が口にすれば、取り込んだ者の内なる本性を表へ引出してしまう、と伝えに残る。故に、開封社と名付けられるも、字を改め、海風社としたものである。
「さて、封を解かれ、鬼が出るか蛇が出るか……」
 呟く稲田の問いに答えられる者は、まだいない。

 稲田が海風寺の桟橋に着いて間もなく、仰々しくも得物を持った柝繩衆を乗せた四艘の舟を引き連れて、評定省水調部の官吏も到着した。
 顎髭を綺麗に蓄えたいかめしい顔の中年の男は、葡萄茶色の羽織りからして、四位の管理職である事を示していた。稲田の挨拶にも、如何にも上位職らしい横柄な態度を示した。
 付き従うまだ若いふたりは色も定まらぬ下っ端役人で、寺社部の出した形式ばかりの見届け役だ。
 それにしても、官吏が直接、調査に出赴くことは極めて珍しい。泉がそれだけ重要な地であることもあるが、寺社部に対して水調部が政治的威信を示す意味あいが強い。
 大袈裟な数の警護の柝繩衆を連れて、稲田を含めた一行は、上の本堂を目指した。
 輿も使えない急な長い段に、官吏と役人は息を切らし、歩みも遅かった。太った身体を揺すりながら、漸く頂上に辿り着いた頃には、三人ともまっすぐ歩けない程だった。
 それでも、待ち構えていたように出迎えた門主、芳西の前で威厳を示す事を忘れなかったのは、身についてしまっているものなのだろう。
「急なおいで、ろくなお迎えも出来ずいたみいります」
 慌てた様子もなく頭を下げる住職を初めて目の当たりにして、稲田は首を傾げた。黒羽たちからの報告と異なる印象を受けたからだ。
 黒羽からは、堂々たる体格の存在感のある厳めしい感じの男であると聞いていたが、目の前にいる男は、確かに体格こそ稲田に勝るが、まるで紙の上に描かれた絵を前にしているようだった。目前の質量に対して存在感が軽く、気配も薄い。芳西の後ろに付き従う三人の僧も、似たような感じだ。
 ――まるで、魂がないかのような……
 しかし、そんな事よりも、肝心の沙々女の気配が掴めないでいた。何処かに捕われているのか、ここにはいないのか、それすらも判断がつかない。
 稲田は芳西に向かって訊ねた。
「人数が少ないようだが、他の方々は」
「ほかの者たちは、野に下りて托鉢の修業に出ております」
「こんな朝早くからですか」
「修業におきましては、時を選ぶものではありませんから」
 以前、見た事のある仏像とよく似た微笑みが向けられた。
「では、ここにいる方以外はおられぬと」
「今朝は参詣の方も参られてはないと存知ますが」
「そうですか。いや、先程から、あちらの林に人の気配があるものですから」
「おや、そんな筈はないのですが」
 言葉さえも空々しく宙を行き交う。それでも、聞き咎めたらしい数人の柝繩衆が黙って頷きあい、林へと走っていった。
「大方、迷って入った者でもいるのでしょう。これだけ警護の方がみえるのですから、大事もないかと」
 芳西の言葉に、官吏は大仰に頷いた。
「では、私は朝の務めがございますので失礼して、御案内はこの者たちが致します。では、また後程」
 首魁であろう男が場を離れることに稲田は警戒もするが、なにを言えるわけでもなく、見送るしかなかった。
 そうして、三人の僧を先頭に、一行は林の中へと入った。


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