kumo


拾四


 雑木の茂る間の細い道に従い、一列になって進んだ。しかし、どうした事か、そうも経たない内に稲田は孤立していた。
 術中に嵌まった、と気付くまでに時間はかからなかった。
「やつらの結界の中か!」
 どうやってか、稲田をもってしても結界が張ってあることさえ気付かせぬ巧妙さ。油断していたわけではないが、侮りすぎたか、と歯噛みもする。
 樹木の向こうから、男の悲鳴が聞こえた。
 声を頼りに向かっても、同じ風景が続くばかりで捜し当てる事が出来ない。樹木の枝に飛び上がって視界を広くしたが、ひとりの影さえ見付けられなかった。結界は、縦方向にも充分に効力があるらしい。
 感覚の全てが狂わされているようだった。視界はもとより、聴覚も当てにならない。ただ、ひとつ、またひとつ、と人の気配が消えていく感触だけがあった。
「すまん……」
 稲田は奥歯を噛みしめ、枝を飛び移って林を抜けようと試みた。少なくとも、触覚だけは確かなようだ。
 雲引山より吹き降りる風を頼りに方向を定めた。蛇行しながらも風上を目指すうち、稲田は水音を耳にした。
 はっ、と気付くそこに、人の気配を感じた。本堂から気付いていた感触だが、とても弱々しいものだ。誰だかは分からないが、それでも、何処かで会った事があると感じた。
 稲田は注意深くしながら地面に降りると、その出所を捜した。
 突然、ふいをつかれる形で視界が開けた。
 考える間もなく稲田は居合でひと撫でする。鋭い声があがり、妖狐は塵となって霧散した。
「和仁口くん!」
 地面に倒れ伏した少年を抱き起こし、息があるのを確かめるが、すっかりと消耗しきっていた。放っておけば、命に関ろう儚さだ。今の狐に精気を吸われたか。
 稲田は少年の手にある大刀に目を留め、続き、忍び寄る気配に周囲を睨め付けた。
「子供相手に性質の悪い真似をする。おびき寄せたつもりか」
 樹の影より、案内役であった三人の僧が姿を現した。
 視察に出向いた官吏や役人たちはどうなったか。
 囲む三人の僧の目に慈悲の光はなかった。口元には酷薄そうな笑みさえ浮かんでいる。
 稲田は男たちを注意深く見回しながら、少年をそっと地面に下ろすと、背に庇った。
「貴様には我等の道が為の礎となってもらう」
 獅子鼻の男が言うが早いか、岩をも砕かんばかりの太い拳が襲いかかってきた。
 身を低くして空を切らせた稲田の脇で割れた小石が爆ぜた。その一欠片が稲田の頬をかすめ、傷をひとつつけた。だが、痛がる間もなく、残るふたりも立て続けに飛びかかってくる。
「縄」
 稲田は素早く惣三郎の身体を右にして、縄にした風をひとりの拳に巻き付けて、振り下ろす一拍の間を遅らせた。そして、その間にもうひとりに足払いをかけ、体を崩しては軌道を逸らせると、遅れてやってきた拳を脇に躱した。
 どちらも髪一筋の差の危うさに冷や汗が浮かんだ。意識のない少年を抱えて、敵は三人。動きに奇抜さはないが、一発の破壊力は大きい。活路を見出すだけでも難しいが、ここで倒れるわけにもいかない。
 少年の傍らで両膝を地面につけた稲田に向かい、横から跳び蹴りがあった。惣三郎を庇いながら、稲田は片膝を中心に回り、最少の動きで躱した。
 間髪置かず繰出された別の男からの回し蹴りは、自らの気を使って壁を作って僅かに勢いを殺してのち、手で受け止めて男の勢いのままに転がす。
 次の拳は横に反らしたところで腕を捕え、力を入れずして後ろに流した。巨体とも言える男の身体が軽々と飛ばされ、樹木の幹にめりこむように激突した。
 だが、これ以上は避けきれず、真正面からの蹴りを左腕で受ける羽目になった。
 嫌な音がした。
 稲田は歯を食いしばり、重心を前に移す勢いのまま抜刀した。元よりその覚悟はあったが、相手が素手である事や人を斬ることを考える余裕など既になかった。
 刃を薙いだ。が、僅かに後ろに躱される。未だ間合いの中、間髪おかずに縦に振った。硬い手応えがあった。しかし、それは肉を斬る感触ではなく、
「なっ……!」
 稲田は瞠目した。
 袖が捲れ、剥き出しになった僧侶の腕には確かに刃が当っているにも関らず、血が流れるどころか、皮膚に傷ひとつない。気の膜で受け止めているわけでもなく、ただ、斬れないのだ。まるで、鋼そのものであるかのように。
 木太刀ならいざ知らず、否、木太刀であっても、骨を折るか痣をつけるかだけの威力はあった筈だ。それが、御霊はなくしても、決して鈍らではない刀を受けて無傷など有り得ない。
 当の僧は痛めた様子もなく、稲田の顔を見て、にやり、と嗤った。神経を逆撫でするような厭な笑い方だった。途端、受け止める腕の筋肉が、それ自体が個別の生物であるかのように盛り上がりを見せた。
 ざわり、と音がたつようにして稲田は総毛立った。本能的に後ろに飛び退って逃げた。その時、手の中で砕ける音を聞いた。  稲田の脇を回転しながら、通り過ぎていく物があった。
 握る刀の柄から先が消えていた。砕けた木と糸屑だけが稲田の手のなかに残るばかりだ。斜め後方の離れた樹木に、刃が突き刺さる微かな音が聞こえた。
 斬る事にかけては最強の刀の弱点が露呈した。
 即ち、刃自体はいかな強靱であろうとも、木で作られた柄はそれ程ではない。ある方向へ一定以上の力が加われば、梃子《てこ》の原理で、易々と柄が割れて使い物にならなくなる。
 く、と稲田は割れた柄を打捨てて、咽喉で唸った。左腕がずきずきと脈打ちながら痛み、集中も切れかかる。
 蟀谷に脂汗が流れた。が、それを拭う間もなく、容赦なく次なる攻撃が襲いかかってくる。稲田はそれを、無様に横に転がって除ける事しか出来なかった。
 絶対絶命の危機だった。
 だが、ここで屈っするわけにはいかなかった。沙々女を助け出さない内から、こんなところで死ぬわけにはいかない。
「縄! 裂破《れっぱ》っ!」
 場を吹き抜ける風の端を掴み縄状にしたものを、三人の僧侶たちに向けて裂いて投げつける。風は鋭い亀裂をみせて、触れる傍から男たちの衣を裂いた。
 その隙に稲田は上体を起こし、片膝をついた。もう一方の足は仰向けに横たわる和仁口少年の腹を踏みつけた。否、踏みつけたのは、少年が胸に抱きかかえたままの大刀だった。折れた左手に代えて足で固定し、右の手でその柄を握った。
 少年の鼻先寸前を鋭い刃が通り抜ける。
 目を開けていればさぞかし恐ろしかろうその瞬間を、気を失った少年は知らずにすんだ。
 幸い、少年の刀はまだ生きていた。抜いたそれを、稲田は地面に突き立てた。
「裂、礫《れき》!」
 声に応じて大地が裂け目を作り、爆ぜた飛礫《つぶて》が霰の如くに僧達に襲いかかる。
 突然、四方八方より振り付けた飛礫の強襲には、いかな屈強な者であろうとも応ずる術を持たず、ただ頭を庇う事しか出来なかった。
 そして、全ての小石が地面に戻った時、稲田と少年の姿はその場から消えていた。
 辺りを見回す男達の上、少年を抱えた稲田が風の面を駆け上がり、上空へと逃げていく姿があった。
「こしゃくなッ!」
 取り残された僧達の口から、忌忌しげな罵声が吐き捨てられた。


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