kumo


拾陸


 黒羽の視界を饅頭笠が横切っていった。走り回る人の間で悠然と歩くその姿を彼も捕える。
「あのお坊さまを知っているのかい」
「うん。笹のお舟くれたの」
「笹舟を」
「いっちゃんたちと遊んでいたらね、はい、って」
「笹舟をくれたのは、あのお坊さんに間違いないかい」
「わかんないけれど、あれと同じ笠を被っていたの」
「顔は覚えているかい」
「うん。下から見えたから。よく浮かぶよって、五つ貰った。みんなも貰ったの。おまじないがしてあるんだって。前にも貰った子がいてね、ほんとうに良く浮かぶんだって。水の早いところでも壊れないんだって。それで、どのお舟が早いか、みんなで競争してたの」
 黒羽は奥歯を噛みしめた。
「全部流したのかい」
「ううん、あたしだけ、ひとつだけ流せなかったの。流そうとしたらおっかあが来て、手を引っ張ったから。でも、走っている内に手が離れて、おっかあ、見えなくなっちゃった」
 黒羽は離れていく饅頭笠を見つめた。そして、少女を背負ったまま、民家と民家の間に飛び降りた。
 桶が詰まれている隙間に女の子を置くと、あやかし避けにと羽織りを脱いで頭から被せた。
「少しの間、これを被ってここで待っててくれないか。すぐに戻ってくるから。笹舟はまだ持っているかい」
「うん、これ」
 袖の中から、赤い印のついた緑の舟が差し出された。
「貰っていいかい。今度、別のを作ってあげるから」
 女の子は迷う仕草をみせたが、「いいよ。あげる」、と笹舟を黒羽の掌に乗せた。
「ありがとう。ここを動くんじゃないよ。すぐに戻ってくるから、じっとしておいで」
 頷く少女に黒羽は微笑み、すぐに饅頭笠の後を追った。
「縄縛《じょうばく》」
 走りながら手刀《しゅとう》を切り、手に持った笹舟を目には見えない縄で縛る。そして、僅かにずらした刃に笹舟を軽く当て、「封」、と唱えた。それにより、僅かに漏れ始めていた黒き靄の放出が止ったのを見届け、黒羽は改めて笹舟を袂に放り込むように仕舞う。
 通りをふたつ行った先で、目的の人物に追い付くことが出来た。
「そこな僧、待てっ」
 黒羽の張り上げた怒声は届いたか、歩む足が止った。
「あやかしを操り騒乱を起こした罪、既に護戈の知るところだ。逃げられるものではないぞ!」
 饅頭笠が、ゆっくりと振り返った。
「おや、あなたでしたか。ただのお方とは思いませんでしたが、やはり、護戈衆でらした」
 僅かに上げられた笠から覗いた顔には、黒羽も見覚えがある。
「正慶」
 お菊を捜し訪れた海風寺で、一番初めに会った僧だ。しかし、以前あった時とは不思議と印象が違う。
 正慶は黒羽の厳しい表情を前にしても、声音も柔らかに言った。
「それにしても、異なことをおっしゃる。拙僧の不徳が故に疑われるにしても、あやかしを操るなどと、心外も過ぎるというもの。何をもっておっしゃいますか」
「なにを、と」黒羽は袖から少女より受け取った笹舟を出して見せた。「これが証。あやかしを封じたこの笹舟を、貴様や貴様の仲間より渡されたと子供が証言している」
「ほ、幼き者の言う事を信じられますか。残念ながら、拙僧にはとんと覚えはございませぬ。大方、幼きゆえの勘違いというものでしょう。仮にもそのような者がいたとしても、大方、拙僧とよく似た風体の者と間違えたのではないですか」
「ひとりだけならば、そういう事もあるだろう。だが、これだけの事を仕出かした上は、少し探せば、同じ証言をする者は幾らでもいよう。おとな相手にはその笠で顔も隠せようが、こどもは下からはっきりと見ているぞ。さあ、観念して共に来て貰おう。貴様らが何を企んでいるか、洗いざらいを吐いて貰う」
「さて、果たしてそれが出来ますか」
「なに」
「聞く者はおりましょうや」
 耳の奥に響く、地鳴りに似た音が黒羽にも聞こえた。
 細かく震動する空気が肌を泡立たせ、亞所の方角を見れば、立ち上がる巨大な黒い影があった。額に持つ鋭い角で天を穿たんとばかりに、長い鎌首を持ち上げた大蛇がいた。その大きさ計り知れず、亞所の屋根の頂を遥に凌駕する。
「夜刀……」
 突然、甲高い笑い声があがった。正慶が発したものだ。勝ち誇った笑い声は、胸中に蠢く毒を撒き散らすかのような響きを感じさせた。
 正気を失ったか、それでなければ、あやかしに取り憑かれたかのようだ。否、既にこの気配はあやかしそのもの、と黒羽は気付き、表情を硬く引き締める。
 笑い声を引き摺りながら、上ずる声が言った。
「今や、全てが我々の手の内にあると知れ! 観念するは貴様の方ぞ!」
 目の前に立つ僧形を睨みつけ、黒羽は答えた。
「そう上手くいくかな」
「負け惜しみを」
「違うな」
「なに」
「護戈を舐めて貰っては困る」
 そう答えて黒羽は、太い笑みを浮かべた。それは、普段の彼を知る者には想像出来ない程、挑戦的で男臭い印象を与えた。
「諦めるなら今の内だ。幸い私は皆から寛容だと言われる男だから、大人しく従えば、どんな罪人であっても手荒な真似はしない」
「ほざけ!」正慶の指先が、顎の下の紐を緩めた。「余裕ある振りか、愚かなだけか。もう少し賢い男かと思うたが」
「貴様に言われたくないな」
 答え終るか終らないかのうちに、黒羽の顔面をめがけて笠が投げつけられた。阻まれた視界の陰から、間髪置かず、拳が突き出された。


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