kumo


拾漆


 ぶん、と風の唸る音が黒羽の耳を叩いた。
 墨色の袖が捲れ上がり、金棒を思わせる太い腕が左肩脇を掠めていった。それだけで、黒羽の袖のそこだけが真直ぐに裂け、襦袢の色を覗かせる。
 避けた先にも、目にも留まらぬ早さで、続けざまの連打が繰出される。黒羽は少しずつ後ろに逃げながら、それらを全て防いだ。
 そうしながら、誰かが荷を解いた時に落としたものだろうか、地面に転がる荒縄を足先で器用に蹴り上げた。
「縄」
 素早く手刀を切り、風で荒縄の端を手の中に引き寄せては握った。長いそれを手繰り寄せるその勢いで、向かう足を掬おうと縄をはね上げるが、いち早く察知した正慶も、瞬時に側転して横に逃れた。
 黒羽は手首を返して、素早くその先へと縄を動かす。かかったか、と思うその寸前、ひらり、とそれも躱された。
 追う縄の早さは更に増し、身を捩っては上下左右と動かすその早さたるや、まるで縄に生命が宿ったかのように見える。先へ先へと敵を追い立て捕縛せんと曲がり、回され、振られる。
 しかし、敵も然る者。重量のない者であるかの如く飛び、獣のように地に身を這わせては、悉くそれらを皮一枚の際どさで躱した。
 縄が地面に擦れ、土ぼこりをあげる中、正慶は家の軒下に立て掛けてあった竹竿を手に取った。そして中央を持つと、素早くその先で、宙に浮く縄を絡め取った。
 縄を引っ張られる形となった黒羽も、負けじと握る手を強くして、己の身に引き寄せる。
 双方から引っ張られた荒縄は、きりきりと捻じられ、宙に真直ぐに張った。
 と、正慶が一歩、前に出た。同時に手にした竿を返し、もう一方の先を縄に潜らせ回転させて巻き取った。
 更に強く引っ張られた黒羽は、溜らず縄を手放した。
 首尾よく縄を奪った正慶は、竹竿にそれを絡めたまま不敵に笑い、手だれが槍を扱うが如くの容易さで自由自在に振り回した。
 風を切る音も高く、竿の先より伸び出た縄の先が鞭のようにしなり、黒羽の身体を叩く。次にそれを避けると、竿の先端が鋭い突きとなって襲い来る。
 形勢逆転。
 今度は、黒羽が一方的に攻められる番となった。上へ下に、左へ右へと逃げの一手を打つことになった。
 弧を描きながら得物から放たれる一打、一打は鋭く、それでいて、変幻自在。どの方向から来るか予想しづらい。その為、防戦一方で、攻撃に転じる隙もなかった。
 しかし、それでも、黒羽は僅かな隙をついて拳を繰出す。
 確実に捕えた、と思った瞬間、正慶の姿が目の前から掻き消えた。
 はっ、と上を見れば、何もない地面に立った竿の上で両腕だけで身体を支え、逆立ちになった男と目が合った。
 黒羽は足払いをかける要領で、竿を蹴り払った。
 倒れる竿の上、正慶は手を放すことなく、くるり、と旋回しながら難なく着地した。が、すかさず、攻めに転じた黒羽が拳を繰出す。
 攻撃こそ最大の防御と言わんばかりに、拳、掌、脚と休む間も与えず、叩き付ける。正慶もそれらを真正面から受けて立った。
 入れ替わり、立ち替わりの素早い攻防。
 お互いに一歩も退かず、防御と攻めを繰返す。両者、何発かは相手に見舞いはしたが、どちらも決定打とはならず、どちらも倒れる事はなかった。
 しかし、その中で黒羽の放った一打が竿の芯を捉え、ばり、と音をたてて、真ん中に長い亀裂を作った。
 突然、黒羽の左から、高い打点の蹴りが襲いかかった。反射的に左腕で、はっし、と受け止める。
 一瞬の間、そのままの姿勢で、お互いの顔を真正面から見やった。
 正慶が笑った。
 黒羽の背に、ぞっ、とするものが走った。
 それを見まいとするかのように、黒羽は正慶の脚を支えに捻りを加えて軽々と飛び越えると、背後を取った。が、振り返られることなく、旋回する竿が唸り声をあげて叩き付けられた。
 防ぐ黒羽の腕に当り、辛うじて形を保っていた竹竿は数本の細い板へと裂け、一部は砕け割れた。
 欠片のひとつが黒羽の頬に当り、切り傷を作る。
 勢いで押された正慶の身体は後ろに吹っ飛んだ、と思い気や、重量に任せて踏ん張り、一尺ほどの距離を両足を擦って退いただけだった。
 何事もなかったように正慶は顔を上げると、ふてぶてしいまでに、また笑った。
「所詮、その程度。護戈など怖れるに足りぬ」
 それを前にして黒羽の方はと言えば、胸元を手で押さえて前屈みになっている。手の下の藍の色が、じわり、と色を変える。押さえる指先もいつの間にか、仄かに赤く染まっていた。
「護戈の血も、なかなかによき味をしている」指先を舐って正慶は言った。「ただ、先の娘の味には到底及びもつかぬが」
 黒羽の両肩が跳ね上がった。
「貴様……やはり、貴様らの仕業かっ! 沙々女さんをどうした、どこへやったっ!?」
 切先よりも鋭い瞳が、目の前の僧形を切り裂かんばかりに睨め付けた。
「ほう、これは良い事を聞いた。真名《まな》が分からず、困っていたのだが。なにせ、多少の痛みに呻く程度で、何も喋ろうとせず、難儀を致していたところ。しかし、これで儀式が続けられる」
「沙々女さんに、何をしたっ!?  どうするつもりだっ!?」
「そう問われて、素直に答えると思うてか」
 黒羽はゆっくりと姿勢を伸ばし、前髪を払った。その表情は静かながら、底知れぬ憤怒を対峙する者に伝えた。
「ならば、嫌でも話して貰うしかないな」
「ほう、護戈御自慢の刀にものを言わせるか」
 いや、と黒羽は、ゆっくりと被りを振った。
「貴様を倒すのに必要なかろう」
「やれるものならばっ!」
 言の葉が消えぬ内から、向かってくる拳があった。


back next
inserted by FC2 system