kumo


拾玖


 正慶は強かった。それは、黒羽も認めざるを得なかった。不本意ながら、何発かは見舞われた。
 護戈が修めるものとは少し違うが、基本の型は驚くほど似ていた。振り回すばかりの拳とは明らかに違う、拳法を習熟した者の動きだ。だが、それだけに、筋さえ読めれば、見切りも容易い。お互いそうであるのだろうが、それでも正慶の拳には甘さがあった。円を中心とする動作にも、僅かだが隙がある。早さにも慣れた。
 攻撃を受けながらも、黒羽は僅かに笑みを溢した。

 ――和真……

 彼の友に比べれば容易き相手だろう、とこどもの頃、何かにつけては喧嘩した事を思い出す。
 いつも、和真から突っかかってきた。剣に負けて悔しいと言い、そのつもりはなくとも、嘲ったと言って殴りかかってきた。最初は宥めるつもりでいても、すぐに殴り合いになった。
 剣では素直な動きを持つひとつ年下の男は、体術に関しては筋も容赦も何もない滅茶苦茶さ加減だった。お陰で、何発殴られたか、蹴られたか分からない。全身に痣を作り、幾つも傷を負った。そして、彼も同じだけやり返した。
 喧嘩の後は、帰り道の途中の社の縁に並んで座り、沙々女が持ってきた握り飯を食べた。
 大樹から巣立つ小鳥の雛の様を見て、降りしきる蝉の鳴き声を聞き、黄色の葉が降り落ちるのを眺め、枝間を過ぎるその年最初の雪のひとかけらを見付けた。
 黙ったまま、時を過した。そして、別れ際にやっと、「また、明日な」、と決り悪げなひとことを交わして仲直りをした。
 そこにはいつも、沙々女がいた。
 いつも黙って彼等の傍にいるだけであったが、彼等の間に言葉は必要なかった。少女が静かにそこにいるだけで、荒立った気持ちが慰められる気がした。和真に言わせると、「気が抜ける」、そうだが。
 だが、どんなに冷たい言葉を吐こうと、素っ気無い態度を取ろうと、あの友が誰よりも沙々女のことを気に掛けていることを黒羽は知っていた。
 あの同じ時を過した仲であればこそ。
 三人で過したその時は、とても綺麗な風景だったと感じる。他にも大事な思い出はあるのに、こんな時に限って、一層、鮮やかに思い出されるのは何故だろう。
 向かってくる拳を躱しながら、黒羽は腰から刀を鞘ごと抜いた。
 これだけ動いているにも関らず、正慶の早さに衰えはなく、息もあがっていない。黒羽の拳を受けても、効いている様子はなかった。底が知れない体力の持ち主だ。
 彼もまだ余裕はあるが、このまま長引けば分が悪いだろう。
 ただ、勝つ必要はない。目的さえ達せられれば、問題はなかった。
 一瞬だけ見せた正慶の背中を見逃さず、黒羽は一点を鞘の先端で強く突いた。
 衝撃で正慶の身体は前のめりになるが、その場を堪えた。それどころか、前に出た脚を軸にしての捻りが入った蹴りがある。
 だが、これも読みの内だ。
 蹴り上げた脚を黒羽は、空いた左手で掴んで止めた。同時に、鞘で軸足の脛を叩く。僅かに体を崩したところを、素早く取った手首を捻って、地面に向かって真直ぐに叩き落とした。
 正慶の身体は、呆気なく腹ばいに突っ伏した。そこをすかさず背に膝を乗せ、片手を後ろ手に捻り上げた。敷いた男から、悔しげな呻き声があがった。
 続く打撃技ばかりに気を取られ、関節技への警戒を怠った結果だ。それが勝敗を分けた。
「観念しろ」
 いつからか取り囲んでいた柝繩衆が、正慶の首を刺股で押え、縄をかけた。
 完全に取り押さえられたのを見て、黒羽は一番に訊きたかった事を問い質した。
「沙々女さんをどこへやった」
 引き起こされた正慶は、にやり、と笑った。
「さて」
「恍けるな。無事なのか」
「知らぬな」
 黒羽は手荒く正慶の頬を張った。
「言え。沙々女さんは何処にいる」
「知らぬと言うておる」
 にやり、と笑う声が答えた。
「この期に及んで強情な」
 縛られ、黒羽と柝縄衆に囲まれても観念するどころか、余裕の表情を浮かべている。
「吽《うん》!」
 突然発した掛け声と共に、より濃い瘴気が正慶の身体から溢れ出始めた。
「おんきりかくうんそわか……」
 それは、ねっとりと粘り着きそうな密度を保ち、たちまち黒羽の視界を暗く遮った。如何に怨み深き者であったとしても、常人が抱える限度を軽く越えていた。それなのに、まだ、その濃度は増すばかりだ。
 その中で、正慶の全身の筋肉がいきなり膨れ上がった。法衣が裂け、荒縄が千切れる音を聞いた。腹の底に響く咆哮があがった。肌の色さえも赤黒く変えたその姿は、もはや、人ではない。長く伸びた鼻面に、長く伸びた鋭い牙が光った。
「化け物……」
 柝繩衆たちはたじろぎ、後退りした。既に、並の者に相手出来る類ではない。
 黒羽は右の腕に集中して力を籠め、風を呼んだ。逆巻く風の塊に片袖が裂け、飛び散った。
「打《ちょう》!」
 黒羽は変化しかける正慶の鳩尾に右に拳を叩き込んだ。
 小さな竜巻のような風の塊は、異形のものへと変わりつつある男の腹に、穴を開けんばかりにめりこんだ。
 途端、黒い瘴気が噴き出す血の如く、半獣と化した背から押出された。尖った口から液体が吐き出された。
 だが、それでも倒れる事なく、柝繩衆の繰出した袖搦みと刺股を、長い毛で覆われた両手で握り止め、それを支えに立った。
 唸り声が響き、堪える力に長い柄が撓んだ。みしり、と裂ける音がして、堅い木の棒は獣の手の中で砕け散った。
 しかし、その時には既に黒羽は正慶の背後に回り込み、露になった太い首を手刀で強く打っていた。
 風が獣の毛を千切り飛ばし、露になった皮膚を裂いた。僅かながら、一筋の赤い血の流れが宙に弧を描いた。
 半獣の膝が折れた。両手が力なく垂れ、ゆっくりと身体は伏して倒れた。
 みるみる内に、長い褐色の毛は消え、肌も元の色へと戻っていった。
 突然、空気を切り裂く声が轟き、耳を打った。
 振り返る者達の眼に、塵と化す夜刀の姿が映った。
 ほっ、と息を付く声があった。
 柝繩衆は倒れた男が動かないと分かると、数人がかりで仰向けに転がした。
 正慶は白目を剥き、口から泡を吹いて、完全に意識を失ってている。
 黒羽は纏っていた風を解き放った。風は、彼の右腕にも細かい裂き傷をいくつも残していた。だが、堪えきれないほどの痛みではない。
「息はあるか」
「気を失っているだけです」
 正慶の首からの血止めをする柝繩衆の答に、黒羽は安堵の息を漏らした。並みの人間ならば、臓腑は破裂し、首を深く切り裂いて死に至らしめたに違いなかった。
 黒羽は懐から出した手ぬぐいを裂き、自らの右腕に巻いた。
「下手人のひとりだ。まだ、聞きたい事がある。絶対に死なせないでくれ。聖人に頼んで、牢には結界を張った方が良いだろう」
「分かりました。そのように手配しましょう」
 正慶の手と足に、頑丈な枷が嵌められた。
 運ばれるのを待たず、黒羽は柝繩衆のひとりを呼び、少女の元へ急ぎ戻った。
 少女は何もなかった様子で、無事にその場にいた。
「待たせて悪かったね。大丈夫だったかい」
「うん、大丈夫。痛い?」
 裂き傷だらけの右手を包まれるように握られて、黒羽は微笑んだ。
「大丈夫だ。大した事はない」
 少女に、幼い頃の沙々女が重なって見えた。
「じゃあ、行こうか。ここから先はこの人が連れていってくれる」
「一緒に行かないの?」
「大事な人を助けに行かなければならないんだ」
「だって、」
「今頃、母上も捜しているよ。早く、見付けてあげなさい」
 黒羽は愚図りかける少女を柝繩衆に託し、 海風寺に足を向けた。


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