kumo


廿


 少年を背に負い、やっとの思いで海風寺の結界から逃れ出た稲田は、葦原の間に浮かぶ山吹色の法被を見て、立ち止まった。
 柝繩衆を示すその色を纏い背を上にして浮く男は、先ほどまで彼と共にいたひとりなのか。此処まで逃れながら、命尽きていた。
「隊長!」
 呼ぶ声に見れば、駆け寄る部下の姿があった。
「黒羽か」
「隊長、これは一体……」
「彼を助け出すのに精一杯でね。腕もやられた」
 背に負った和仁口少年は、未だ意識を取り戻さない。
「君も遣りあったか」
「はい。なんとか生きたまま捕えましたが、この様です」
 と、羽織りの右袖を捲って見せた。
「そうか。で、状況は」
「都中にあやかしが溢れ、全隊士が出て掃討に当っています。それで、沙々女さんは」
「分からん。居場所さえ掴めなかった。一度、態勢を立て直して出直す必要がある。君も一緒に来なさい」
「いえ、私は」
「今、寺には最低でも四人が残っている。ひとりで行かせるわけにはいかんよ」苦しげに顔を顰める部下に、稲田は言った。「沙々女ちゃんを助ける為にも、この騒ぎを収める為にも、確実にやつらを仕留める。その為に、もう一度、策を練る必要がある」
 敵が想像以上であった事は、黒羽にも分かっている筈だ。
「悔しいが、助けが必要だ」
 見上げる丘は雲引山より低くあっても、遥かに遠く感じる。
 しかし、この騒ぎの中、彼等の力となる者はどこにいるのか。
 人々の悲鳴と黒煙が、空高く立ち上っていた。

 望むと望まざるに関らず、全ての指揮を一手に引き受ける一丿隊隊長水無瀬は、その美しい顔を鬼の形相に変えて、護戈衆たちに檄《げき》を飛ばしていた。
「亞所には、一歩たりとも近付けさせるな! 力のある限り、目の前の奴を斬って、斬って、斬り倒せ! 他は構うな!」
 都は、あやかしと護戈の戦いによって破壊の一途を辿っていた。あちらこちらで水飛沫があがり、土煙が立ち昇り、風が唸り声をあげる。木っ端が飛び散り、土石が崩れ落ちる。さながら、戦場まっただ中の様相を呈していた。
 その中にあっては、美貌の女隊長の長い髪も乱れ、艶ある声は嗄れる。白羽織もすっかりと煤けていた。しかし、今はそんな事も構っていられなかった。
 まるで、飛び回る蝿を叩き落とすが如きの指揮だった。策を練る間もない。これだけ手が回らない経験は、彼女も初めてだった。
 だが、愚痴を垂れる間もなく、次の伝令がある。
「東水門に、夜刀が出現しました! 他、女郎蜘蛛など多数!」
「北水路の半数は、東水門へ回れ! 手に余るものは四丿隊に任せろ! まず、数を減らせ!」
 その中で、水路を上ってくる一艘の船に眼が留まった。
 この騒ぎの中をどう渡って来たのか、葡萄茶色の羽織りの官吏と、ふたりの役人が乗っている。護衛はなく、役人のひとりが船を操っていた。誰もが強ばった表情をしていたが、怯えている様子はない。
 妙だ、と水無瀬は勘づく。
 だが、確かめたくとも、彼女がこの場を離れる事は許されない。易々と、亞所に入っていく後ろ姿を眺めるだけしかなかった。
「南水門の方は、あらかた片が付きましたので任せて参りました」
 その時、気配を捕えるより先に、彼女の最も信頼する部下の声があった。何十体というあやかしを相手にしてきたばかりとは思えない涼しい姿に、水無瀬すらも驚く。
「どうぞ、ここはお任せ下さい」
 まったく不思議な男だと思う。必要な時には、心を読んだかのように必ず傍にいる。彼女の下に来てから六年ほど経つが、未だによく分からない。しかし、今はそれについても考える時ではなかった。
「よし、任せた」
 水無瀬は大きく堀を飛び越えると、亞所の門内へ官吏を追って入った。広い前庭を一直線に駆け抜け、建物内に入る。その間、護戈の俊足を使っても尚、水無瀬は役人達の背中すら見る事がなかった。
 彼女の勘が、確信に変わった。
 やはり、騒然とする亞所内で、書類を抱えて走り回る役人のひとりを捕まえた。
「今、入ってきた葡萄茶色の官吏は、どちらへ行った!?」
 突然の詰問に役人は驚いた。身体を硬直させたまま唾を飲み込んで、あちらへ、と指さした。
 水無瀬は役人を手荒く離すと、同じ壁、同じ柱が均等に並ぶ廊下の先を急いだ。
 亞所の内部は八角形を五層にした入子の様な作りになっていて、内側に行くほど重要な部所とされている。単純な構造ではあるが、統一された壁と柱が続く内部の風景に、慣れた者でさえ迷う。そして、奥へ続く門には番人が置かれ、その位によって通れる場所も限られる。
 水無瀬が通れるのは、二層まで。目印となる葡萄茶色は、三層までは難なく入れる。
 急ぐ必要があった。しかし、千人を越える役人が働くその中で、気配も知らぬ人間ひとりを捜すのは至難の業だ。
 水無瀬は慌てふためく人の間を縫いながら、数多くないだろうその色を捜した。
 奥へ進むに従って、周囲の人の数が減っていった。
 三層奥へと通じる扉の前で、当然のように交差する二本の槍が突きつけられた。胸当てを身に付けた屈強な体付きの男達が、彼女の前に立ちはだかった。
「何用か」
 亞所内部を護る、特別警備隊の者だ。
「今し方、ここを四位の官吏が通りはしなかったか。役人二名を随伴した」
「確かにお通しした」
「名をご存知か」
「水調部の間伏《まぶせ》殿である」
「その間伏という者、あやかしに取り憑かれた可能性ありとみて来た。ここをお通し願いたい」
「なんと」
「目的は不明だが、この騒ぎに乗じてよからぬ事を企んでいるは明白。何かある前に処理せねばならぬ。お通しあれ」
 水無瀬の言葉に、警護隊も戸惑いをみせた。だが、顔を見合わせて頷きあうと、より強く槍を交差させた。
「それは出来かねる」
「八老師のお命も危険に晒されるかと言うのにか」
「なればこそ。貴殿こそがあやかしでないという証もない。元よりこれから先は、護戈の隊長であってもお通しできない決まり。正規の手続きにて許しを得てからお出であれ」
 水無瀬の眉間に、くっきりとした筋が刻まれた。
「どうあってもか」
「いかにも」
「ならば仕方ない。出来れば穏便にすませたかったが、一刻も争う時なんでね」
 水無瀬の手が柄にかかった。対する警備の槍先も、構えの姿勢で彼女に向けられる。両者の間で、緊張の糸が張りつめた。


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