kumo


廿壱


「ここで何をしておる」
 唐突に大きく響き渡った声に、水無瀬は振り返った。
「総帥」護戈の最高位を示す紫の羽織りの老人が、そこに立っていた。「いつの間に」
「まったく。おまえさんのただならぬ気配に来てみれば、この有り様ときた。亞所内での抜刀、及び、人に向けるはご法度という事を知らぬわけではあるまい。この、じゃじゃ馬娘が」
 賦豈老は顰め面も厳しく、水無瀬の側近くへ歩み寄った。
 彼女の手が刀の柄から外されると同時に、槍も退かれた。
「申し訳ありません。ですが、急を要する事態であるにも関らず、この者達が先へは通さぬと言い張る為、やむを得ず」
 頭を軽く下げる水無瀬に、ふむ、と老人は一声頷き、目を覆わんばかりの長い眉毛を動かした。
「先程、あやかしの気配がしたかと思ったは、気のせいではなかったか」
「それこそ、官吏に憑いたものに相違ありません」
「ほぉ、随分と舐められたもんだの。して、その官吏とは」
「この者達の話では、水調部の間伏という者。おそらく、海風寺に派遣された者かと」
 ほ、と賦豈老は笑い声ともつかない声をあげた。
「これはまた、うまい事しおったな」
「感心している場合ではありません」
「そういきり立つではない」老人は棘を隠さない部下に向かって、やんわりと諌めた。「心配せずともここは任せて、早いところ外を治めなさい。それとも、おまえさんには、ちぃとばかり荷が重すぎるか。少々、目論見も外したようでもあるが」
 いいえ、と水無瀬は沁みの浮かぶ年老いた顔を見ながら、きっぱりと答えた。
「ご案じなく。それより、御大の身が案じられます」
「人を年寄り扱いするものではない。それに、今頃は、もう片付いているかもしれん」
「とは、」
「亞所の護りは、甘くないという事だ」
 にっ、とした笑顔の瞳の鋭さに、水無瀬もたじろいだ。
 ならば、と唾を飲み込み言ったその時、彼女達の前の扉が隙間を作った。ちらり、と一瞬よぎった、鮮やかな朱の色に水無瀬の視線も自然と引き寄せられていた。
「あい、分かった」
 扉に近付いた賦豈老が返事をすると、扉は静かに閉まった。
「万事問題なし、だ。おまえさんも早く行きなさい」
 賦豈老は、使いのこどもを追うようにのんびりと言った。
 つまり、あやかしは既に片付いた、と言う事に違いなかった。
 扉の向こうにいた人物について問う事は許さない老人の雰囲気に、水無瀬は、渋々、頷くしかなかった。
 元来た道を急ぎ戻る彼女の瞼の裏に、朱い色が焼き付いて離れなかった。

 自陣へ戻った水無瀬は、そこに沢木の他、稲田と黒羽の姿を認めた。ほっ、と胸を撫下ろす間もなく、二丿隊隊長の添え木をされた左腕を見た。その副官の右袖からも巻かれた繃帯が覗いている。
「怪我したのかい?」
「坊主たちとちょいと遣合ってね。大した事ないよ」稲田は薄く笑った。「そっちはどうだった」
「中は心配ないって、爺さんに追い返されたよ」
「そうかい。俺がしくじったせいだな。悪かった」
「そうだな。とは言え、ここまでやるとは、あたしも思わなかったからな。読みが甘かったのはお互い様だ」
「ああ。奴さんらも、ここで一気に片を付ける気なんだろう」
「これからどうしますか?」
  黒羽の問いに、「本拠地を叩くしかないな」、と稲田は即答した。
「しかし、こっちもなんとかしないとね」、と水無瀬も答える。
「まだ坊主たちがそこらに潜んでいるだろう。隊士も疲れてきている。あたしだったら、もう少し体力が切れるのを待って、もう一手、仕掛けるね」
「肉体もそうでしょうが、精神の方が参ってくる頃です。狐が惑わすには絶好かと」
 静かな沢木の進言に、稲田は、やれやれ、と溜息を吐いた。
「陽も傾いてきた。実に効果的だねぇ」
 迎えるは、逢魔ヶ時。
 西の空を眺めた水無瀬は、ち、と舌を鳴らした。
「まったく、敵ながら見事だよ」


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