kumo


廿弐


 早く、早く、と心の中の急き立てる声は一向に止まず、船の舳先まで走っていきたくなりそうな衝動に、和真は我慢しながら船室で時を過した。気を紛らわす為に、七丿隊各分隊から送られてきた書状を何度も読み返した。
 笹霧の婆さまに会って戻った和真を、榊が待っていた。
 ふたつの分隊から、早速、報告が届けられたという事だ。そして、その内容は、和真も驚くものだった。
 それによると、一部発覚しただけでも、七丿隊の管轄内での都と同じ手口の娘殺しは、数えて十三件にものぼった。その幾つかでは、同時に行脚をしているという僧の集団が確認されていた。
 人々より御明かし文を預かっては、その願いを聞き届けるという評判は、海風寺の僧と共通している。
 或いは、一通に興味深い内容があった。
 数年前、茶枳尼天を祀る寺があり、人に取り憑いたあやかしを祓う事も出来るという優れた住職があった。その名を雪按と言う。その為、七丿隊のその分隊は、普段から協力を頼んでいたそうだ。
 雪按は人格にも優れ、主に流民に多くの門徒を抱え、犬神人たちにも慕われていたという。しかし、それも数年前、寺の火事で亡くなっていた。
 丁度、何日間に渡る祀りの最中であったが為、寺に一緒に篭っていた門徒達も、大勢、焼け死んだそうだ。
 公には火の不始末によるものとされたが、運よく助かった者の中に、火付けであったと主張する者がいた。
 火事の際、行方知れずになった何人かの修業僧の仕業だ、本尊を盗み出す為に行ったのだ、と言って最後まで譲らなかった。
 結局、すべてが焼け落ちた中に証拠はなく、未だにその真偽は不明との事だ。そして、行方不明になった僧の名の中に、芳西の文字を見る事が出来た。
 これこそ、和真が飯屋で聞いた話であり、海風寺の僧侶たちを下手人とする足がかりともなりえる証言だろう。
「まさか、このような事が起きていたとは……」
 届けられた全ての報告を読み終えた榊も絶句した。
「偶然にしては、話に重なる部分が多過ぎます。同じ者の手によるものとみて良いでしょう。証拠とは成りえませんが、評定省の審議を受けさせるには充分です」その声から怒りも伝わった。「すぐに都に戻り、報告を。これ以上の犠牲を出さない為にも、早急に手を打たなくては。私も残りの報告を待って、すぐに都に上りましょう」
 そして、定期船を待つよりも早く、七丿隊の御用船の手配がされ、操る笹霧の班と共に慌ただしくも和真は乗船した。訪れて二日目の夜には、都へ戻る道を辿る事になった。
 貝塚とろくに別れの挨拶もできなかったが、和真にとっては残念よりも有難さが勝った。
 沙々女に会いたくて止まなかった。躊躇いもあったが、押さえきれない気持ちは、衝動に近いものに変わっていた。ただ、彼女がそこにいると確かめずにはいられなかった。
 ひとつ夜を越え、朝を迎えてその陽が落ちる前に、漸く、覚えがあるような風景を目にする事が出来た。
 気忙しくも用意を整え甲板に出た和真は、そこに異様な空気を感じ取った。肌にぴりぴりとした痛みにも近い痺れを感じた。
 向かう東の空が、赤く染まって見えた。
 予告なく、急に船足が停まった。
「どうした。何があった」
 甲板に立つ笹霧に問うと、緊張した顔が和真に向けられた。
「都でなにか騒ぎが起きているようだ。沢山の小舟がこっちに向かってきている。今、様子を見に行かせている」
 そう聞く間に、下から、おおい、と声があった。
「都に何百匹ってあやかしが出て、大変な騒ぎになっているそうだ。逃げ出てきた者が大勢、こっちに向かってきている。とてもじゃないが、ここから先は無理だ。小舟を転覆させちまう!」
「なんだって!」和真は船の縁に身を乗り出した。「護戈はどうしたんだ!?」
「総出でやってるようだが、なにせ数が多過ぎて、えらい事になっているらしい!」
 水面に立つ、七丿隊隊士が彼を見上げて答えた。
 護戈が総出などとは尋常な事ではない。焦る声が、より大事であると感じさせる。
「都までは、まだ遠いのか」
 笹霧に問う。
「いや、もう幹竹《からたけ》を越えているから、さほど遠くはない。泊までは、およそ三里ほどだ」
「では、ここで降りて走る」
 言うなり、和真は船から飛び降りていた。
「気をつけて行け! 俺たちは、避難してきた者を誘導してから後を追う!」
 笹霧の大声を背に受けて、和真は水面を蹴立てて走り始めた。
 それは疾風の勢いで、川面を覆うばかりの多くの小舟を揺らしたが、人々の眼に留まる事はなかった。
 空を切り割って走り抜け、半刻も経たずに辿り着いた都の泊は、出発の時とはあまりにも様相が違っていた。
 目に映るのは、眼を背けたくなるような悲惨な光景だった。
 川岸には、着の身着のままで逃れて来た人々が押し合い、一歩でも遠くへと、浅ましいばかりに小舟を奪い争っていた。
 ひとりでも多くと、乗る船に僅かな隙間があれば割り込み、既に乗った者を引き摺り下ろす。揺れる小舟は人の重みで軋み、川底につかんばかりに低く沈み、中には転覆するものもあった。
 陸では男も女も関係なく殴り、蹴り飛ばし、河原者も巻き込んでの乱闘もあちこちで起きていた。そうでない者は虚ろな表情で蹲り、念仏を唱え、祈りを捧げている。柝繩衆などには、果敢にも秩序を取り戻そうと声を嗄らす者もいたが、恐怖に眼を閉じ、耳を塞ぐ者たちに届くものではなかった。泣き声、叫び声、喚き声ばかりが響き渡っていた。
 一足飛びに人々の頭上を跳び越えた先で、ふ、と和真は行き過ぎようとしていた足を止めた。
 ちりちり、と耳元に鈴の音を聞いた気がした。それは、沙々女の帯につけられていたそれとよく似た音だった。
 どこからか、と辺りを見回せば、堤防の上に生える一本の木の上、太い枝にしがみつくようにして、白い布を振り回す太吉に気付いた。
「羽鷲さぁん!」
 太吉は精一杯の声を張り上げ、布を高く掲げて振っていた。
 和真は、枝に飛び移った。
「どうしてここへ? 一体、何があった」
「そんなの、知りゃしませんよ。急にあやかしがどっ、と湧いて出て、あっという間に大騒ぎになっちまったんですから。そん中、隊長さんからここで羽鷲さんを待ってろっとか言われて、命からがらなんとかここまで急いで来たんです。戻って来るかもしれないからって。ああ、もう見付からなかったらどうしようかと」
 太吉は顔を紅潮させ、息も継がずに一息に言った。
 見れば、振っていた布は褌のようだ。他に目印となるものもなく、引手の男なりに必死だったのだろう。
「隊長から?」
「書状を亞所に持って来いって。隊長さんたちもそこにいる筈ですよ」
「他の皆はどうしている。沙々女は」
「それが、大変なんですよ。昨日から、沙々女さんもいなくなっちまって」
「なんだって!?」
「例の奴らに勾引かされたって、みんな血相変えて捜し回ったんですが、この騒ぎでそれどころじゃなくなって……」
 半泣き声が、和真の耳を通り抜けていった。
 細い枝の先の先、小鳥だけが留まれる先端に、白くぼんやりとした人の姿を認めていた。
「お菊、」
 黄楊の櫛だけをさした長い髪に、撫子色の着物を身に付けた娘は、艮《うしとら》の方向を指さした。何かを訴える表情で唇が動いた。
『助けて』
 和真の直感は悟った。背の荷物を外すと、未だ喋り続ける男に放り渡した。
「これを頼む」
「頼むって、羽鷲さん、どこへ行くんですか! 羽鷲さん! 置いていかないで下さいよ!」
 太吉の悲鳴に近い声は、既に和真の耳に届いてはいなかった。喧騒も何も、ほかの者は目に入ってはいなかった。
 再び走り始めた和真は、一心に、彼を導くように姿を見え隠れさせる菊の後を追った。
 何が起きているのか、菊がどこへ連れて行こうというのか、和真にははっきりした事は分からなかった。だが、何をしなければならないかだけは、はっきりと分かった。

 ――沙々女!

 助けを待つ娘の下へ、和真は急いだ。
 残光を残し、今、山間に太陽が沈んだ。


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