kumo


廿参


 そこは、都にあって、唯一、静寂を保っていた。寄る辺無い闇に近い暗さにあって、それが、一層、不気味でもあった。
 湿った空気を抱え込む鬱蒼とした森をふたつに分かつ階が、上に向かって伸びていた。
 細い指先が一本、上を指した。
「ありがとう」
 礼の言葉に菊は少しだけ笑むと、姿を消した。
 和真は緩んだ草履の紐を絞め直し、大きく深呼吸をした。そして、長い階を一気に駆け上がった。
 ――こっち……
 声と言うはっきりとしたものではなく、微かな空気の震えに近いものが和真の心を引っ張る。
 それは、いつも和真に沙々女の居所を教えてくれた。一度も来た事のない見知らぬ場所であろうとも迷う事なく、いつでも和真は沙々女の下へ行き着く事が出来た。
 そして、今も。
 僅かに欠けた月が、雲間に隠れた。
 灯ひとつない暗い空間にあって、より黒く大きな建物の前に和真は立った。しかし、その先を、待ち構えていた三つの人影が阻んだ。
 夜目にきく護戈の目であっても、闇に溶け込む墨の衣は輪郭もぼやけて、姿形も判然としない。殺気だけが、はっきりと伝わった。
「また、鼠が一匹ちょろちょろと。懲りずによくもやってくる」
「頭の足りぬ畜生ゆえ、仕方あるまい」
「さて、どうやって捻り潰してやろうか。鍋蓋で押し潰すか」
「そんな物を使っては、迷うだけ。拳ひとつで充分」
 つまらぬ掛け合いに和真は一言もなく、手を柄にかけた。
 どっ、と音がした。
 刀を抜く間もなく、和真は後ろに飛び退った。それまでいたばかりの地が割れ、黒く盛り上がった。
 地面を殴りつけたひとりの仕業だった。
 尋常ならざる怪力。和真とても眉をひそめる。
 細く風が吹いた。抜いた白刃に渦となって纏わりつく。
 和真は徐にそれを地面に突き刺すと、「礫」の一言を呟いた。
 声は大きくなかったが、割り砕かれていた石畳の礫《つぶて》が、生き物のように三人に向かって襲い掛った。
 前に立つ三つの影は、ばらばらの方角に散って礫を避けた。地面はより広く深い裂け目を作り、脇にあった石灯籠を傾がせた。
「あんまり舐めた真似してくれるなよ」
 和真は刀を収めながら、低く言った。怒りと気迫の篭った声に、囲む三名の足の地面を擦る音が応えた。
 次の瞬間、幾つかの鈍い音と共に男の呻く声が響いた。
 消える早さで男のひとりに近付いた和真は、まずは鎖骨を折った上でよける間もない殴打と蹴りを浴びせかけていた。急所ばかりを狙ったその全てに、手加減はなかった。出来なかった。
 和真は、僅かに身体を横にずらした。
 仲間の危急に飛びかかってきたもうひとりの拳が、よろける男の身体にめり込んだ。思い掛けない仲間の一撃に、男のひとりは地面に倒れ伏した。
「貴様ぁっ!」
 あがった怒声も、すぐに地に這った。足払いをかけたその足で、和真はふたり目の男の脊髄中央を踏みしめた。
「怪我を増やしたくなければ、失せろ」
 和真の一声に、男のひとりが笑った。
 筋肉の軋む音がして、和真の身体が浮き上がった。足下の男が、彼を乗せたまま起上ろうとしていた。
 突然、斜めになった背を蹴り上がり、和真は宙返りをして男から間合いを取った。
 布の裂ける高い音が響いた。
 離れても尚、男から濃い瘴気が立昇るのを感じた。獣じみた唸り声も聞く。そして、他のふたりからも同様の気配を察知した。
 澱んだ空気が、周囲に立篭め始めていた。
「魂を堕としたか」
 どうやったまでかは分からなかったが、僧が地面を割った時から彼も薄々は感づいていた。気配からしても、人というよりはあやかしに近いと感じた。憑かれているというよりは、一体化している感じだ。それが、今、確信となった。
 こうなれば、本気で相手をするしかなかった。
 当然、人を斬った事はなく、斬りたくはなかった。だが、沙々女の身には代えられない。
 湧き出る躊躇いは捩じ伏せ、迷いは捨て、覚悟を決めた。
 修羅の名を得ようと、後悔に苦しむ事になろうとも、今、守るべきものを選んだ。
 和真は、今度こそ斬る為の刀を抜いた。
 いざ、と目の前の壁となる三人の大男達を前に、正眼に構える。
 と、突然、和真の脇を、背後から赤い炎の玉が走り抜けた。明るい光は、一瞬、辺りを照らし出し、見るもおぞましい、獣人と化した三人の姿を闇の中から浮かび上がらせた。
 炎の塊はひとりの爪によって散らされ、再び、暗闇が訪れた。
「なにやつ!」
「ここから先は、私が相手をしましょう」
 静寂の夜に溶け込む、静かな気配。和真の横に立った、しじまに似た声が言った。
 それが誰であるか知った和真でさえも驚く。
「沢木さん、なんであんたが」
「その問いは私の方です。ああ、だが、呼ばれたのですね」
「呼ばれた?」
「話は後程。君は先へ。務めを果たしなさい」
「しかし、」
「早く!」
 疑問はあったが、和真に選択の余地はなかった。しかし、その前にも、しつこく立ち塞がる壁が出来る。
「行かせると思うてか」
 だが、間髪置かず、背後から放たれた炎が道を開いた。
 和真はその隙に大男の傍らを擦抜け、振り返りもせず、一直線に本堂へと向かって走った。
 後を追い掛けようとする男たちの前に火柱が立昇り、行く手を阻んだ。
「あなた達の相手は私です」
 蝋で出来ているかのように、鋭い切先に炎が揺らめいていた。玻璃の双眸にも、灯が映る。
 それは、決して暖かなものではなく、逆に冴え冴えとした冷たさで、三人の男たちの足を凍りつかせた。
 人と言うよりは、鋭き刃の刀そのものが立っているかのような佇まいが言った。
「覚悟しなさい。私は、他の護戈衆のように甘くはない」
 三つの巨体が、沢木に向かって一斉に飛び掛っていった。


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