kumo



 死に面した男を無視し、女は、さて、と沢木に向き直った。
「先の話に戻るが、此の娘、瑠璃の娘と申したな」
 はい、と返事をする沢木も何事もないかのようだ。
「身の内に宝珠を抱えるは、そのせいか」
「宝珠を?」
「紛れもなく、淡海《あわうみ》の主殿のものじゃ。これでは、心が塞がれておろうに。僅かに綻びも出来ておるようじゃが、さては、玄武殿の泉を口にしたな」
「と、申されますと」
「情を感じる事もなかろうて。人として生きるには足りぬものであろうよ。傀儡と変わらぬ。穢れを寄せ付けぬ為であったろうが、乱暴な真似をしたものじゃ」
「さて、私が知る限り、瑠璃さまがなされたとは思えませぬ。お作りになった鞠の中に収めた迄は存知上げておりますが」
 それを聞いて和真は、思わず、あ、と声を発した。
「そこの者、何か心当りがあるようじゃの」
 女の視線が向けられた。
「先程より其処へ転がりしが、なんとも難儀な様子じゃ。悪しき者ではないようじゃが」
「沙々女をどうするつもりだ」
 和真は、痛みに喘ぎながら女に向かって訴えた。
 訝しげな表情が彼を見返した。
 沢木の険しい顔が向けられた。
「羽鷲君、口を慎み給え。君が心配する事は何もない。事情は後で説明する」
「心配するなって言う方が無理だ。事情ってのはなんだ。どう見ても取り憑かれてるだろうが! それをあんた、さっきから何をのんびり話しているんだ」
 声を出す度に走る痛みにも構わず、和真は声をあげた。その内、言葉が咽喉が詰り、噎返った。
 肋《あばら》が軋む咳の中で、沢木が言った。
「ご無礼の段、お許しを。何ぶん子細を知らぬ者故、取り乱してございます」
 なにを、と言い返そうとする先から、また咽喉に言葉が刺さり、和真は咳き込んだ。
「よい」、とどこか面白そうな声が答えた。
「沙々女というが、此の娘の名か」
「はい。瑠璃さまがおつけになられましてございます」
「ふむ、らしからぬ、聞き慣れぬ響きじゃ」
「瑠璃ってのは誰の事だ、母親の名は翡翠だろう」
 収まりかけの咳の合間、和真は横から口を出した。
 おや、と沙々女の声は言い、沢木は、ああ、と頷いた。
「翡翠か。相応しいの」
「万が一を見越して、ご用意なされていたのでしょう。呪にかからぬよう真名を預かり、伏せましたか」
「だから、何の話をしている!? そんな事より、沙々女を返せっ!」
「威勢の良い童男《をぐな》じゃ。余程、此の娘が大事とみやるの」
 ほほ、とからかうような軽い笑い声が立った。
「鳥と呼ばぬ身ではございますが、この地にあって翡翠さまが呼ばれた者にございます」
「ならば、致し方なかろうの。だが、少々、力量不足にもみえるが」
「翡翠さまにおかれましても、ご存知ない事にて御座いましょう」
「ほぉ、では、知らずして妾を呼び、鳥を呼んだと」
「御意」
「血ゆえか。して、此の娘、朱上として立つか」
「それは分かりかねます。が、瑠璃さまの血を継がれているとは言え、未だ郷の地を踏む事もなく、無理かと存じます」
「ふむ、朱上となれば、淡海の主殿もお喜びになろうにの」
「人の世にては、各々、思いが違いますれば」
「そうであった。さて、そろそろ妾も参ろうか。どうやら、妾が手を下すまでもなく片付いたようではあるし。それに、思いがけず、瑠璃が身罷っていたと知っては、早速、彼の地に向かわねばの。主殿もさぞかしお嘆きであろう。お慰めのひとつも申し上げねばならぬ。その童男に娘も返してやらねばなるまいし」
 赤き瞳が、和真の瞳を、ひた、と見据えた。
「されど、その方。これより先、此の娘と共にありたいと願うならば、鳥の心得を知るが良いぞ」
「鳥とはなんだ。どういう意味だ!?」
 だが、その問掛けも、耳に遠くすまされる。女の視線は既に沢木の方へと向けられていた。
「その方、この童男を多少なりとも仕込んでやるが良い。瑠璃の手向けにもなろう」
「御意。ところで、最後にひとつだけ宜しゅう御座いますか」
「なんじゃ」
「御方さまの御座《みくら》はいずこにござりましょうや」
「おう、玄武殿のご好意により雲引山を居としておる。この地にあらば、またの機会もあろうかの」
「縁が御座いましたら」
「待て……」
 未だ、引き留める者がいた。苦痛に土気色になった顔を歪める芳西が、それでも立ち上がろうとしていた。
「このままではすまさん。すまさぬぞ……」
「なんとも無様な」
 呆れた口調で女は言うと、冷たく身を翻した。
「待て」、と立ち上がり様に叫んだ芳西の肩が、いきなり割れた。
 鮮血が飛沫となって噴き上った。背の肉も、ぱっくりと赤い口をみせて、飛沫を撒き散らした。脇腹、腕、脚からも、次々と血が流れ始めた。
 全てが和真が斬付けた箇所だった。傷ひとつ負わせられなかったものが、今頃になって形となって表れたかのようだ。
 見事なまでの肉体が、みるみる内に萎んでいった。骨と皮ばかりの枯れ木のようになった男は、半刻前の姿を思い起こす事も不可能なほどに別人の姿と成り果てていた。痩細った男は、膝を落し弛緩すると、どろり、とした液体の中に倒れた。
 その周囲に、ぽつり、ぽつり、と狐火が灯った。蒼白い炎は芳西の骸を取り囲み、数を増していく。そして、それはすぐに狐の形を為した。
 姿を現した妖狐達は先を争うようにして、両目を見開いたまま事切れた芳西の身体に飛びつくと、他には目もくれず、その頭の先からがりがりと音を立てて喰らい始めた。
 野太い男の悲鳴がどこからか響きとして伝わってきた。正に身体から抜け出ようとする芳西の魂魄が、狐の牙によって食いちぎられているところだった。
 非道な者とは言え、死してもあまりの惨い様に、和真も思わず目を背けた。
 文字通り、幾人もの人の生き血を啜った男の、呆気ないばかりの最期だった。
 女はその様子に、ちらり、と眼をやっただけだった。
「なんとも汚らわしき事じゃ。後は任せたぞ」
「おおせのままに」
「さらばじゃ」
 言うが早いか、沙々女の身体が、再び眩いばかりの白い光の柱に包まれた。だが、それもすぐに消える。
 突然、どぉん、という地鳴りと共に、床が大きく揺れた。
 それまで立っていた沙々女の身体が崩れ落ちた。
「沙々女っ!」
 反射的に和真の身体が動いて、抱き留めていた。
 脳天を突き抜ける痛みがあったが、取り落とす事はしなかった。しっかりとその身体に腕を回し、支えた。
 その間にも柱が軋み、天井からも木端や土壁の塊が降り落ちてくる。
 和真は沙々女を庇い、全身で守った。
 短い間に、揺れは収まった。
 和真はゆっくりと周囲を見回しながら、沙々女の無事を確かめた。
 髪は元の腰までの長さに戻り、淡い黒の色へ戻っていた。緩く上下する身体からは、柔らかさと温もりが伝わった。肌は白く、虹色に光る事はない。ただ、肌を裂かれた傷が、どうした事か、全て跡形もなく消え失せていた。
「沙々女、」
 和真は、腕の中の娘に呼びかけた。
 閉じられた睫毛が細かく震え、瞳が開かれた。ふたつの碧玉が、和真を捕えた。
「和真さま……」
 捕われたまま、和真は痛みを忘れ、うん、と頷いた。
「帰るぞ」
「はい」
 長い爪をなくした細い滑らかな手が、和真の手に触れた。
 その手の温もりを、和真はしかと握る。
「ここもすぐにも崩れそうだ。早く出なさい」
 脱いだ羽織を沙々女の肩にかけながら、沢木が言った。
 その背後から、ぎゃん、と犬の叫び声が聞こえた。骸に取り憑いていた狐の声だった。
『そうはさせぬ……』
 地の奥底より湧き出たかのような声が響いた。


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