kumo


卅壱


 和真と沢木は、声の方に身構えた。
 すると、干からびた男の骸がある筈のところに、真っ黒に蠢くものがあった。それは、形と言えるものはなく、さまざまに動きながら形作ろうとしているようにも見える。
 ぎゃうん!
 悲鳴のような高い鳴き声をあげて、骸に取り憑いていた狐の一匹が、今まさにそれに呑み込まれようとしていた。もがく身体が沈み込むように、みるみる黒い塊に呑み込まれていく。抵抗虚しく、ばたつく足先や牙をむく長い鼻面も形ないその中に取り込まれ、そうして塊は更に大きさを増した。
 一度は浄められた堂内の空気が、再び、澱みを濃くし始めていた。
 床に流れ出た血から、湯気のように濃い瘴気が立ち昇っていた。瘴気が作る黒く濁る靄は見る間に色を濃くして渦を巻いた。揺れ動き、ところどころ千切れ飛んでは、更なる瘴気を辺りに撒き散らした。
 鼻が曲がりそうな臭気が、強く漂い始めていた。
「怨霊と化したか」
 沙々女を背後にやって、和真は呟いた。
「まったくもって、しぶとい」
 沢木も口苦く応える。
 どこからともなく響く声があった。
『誰ひとり、ここから逃しはせぬ。我が身滅びようが、如何ような姿になろうとも、諦めなどするものか。この地の衆生、すべて滅ぼしてくれる!』
 一声ごとに籠められた強い憎しみは、呪詛そのものだ。
「さて、どうしますか」
 他人事のように言う沢木に、和真は答えた。
「刀があるだろう」
「血で穢しましたから」
「あいつらを斬ったのか」
「はい」
 あっさりとした返答に、和真は驚くでもなく頷いた。
「俺のも奴に折られた。脇差はまだあるが、俺は立っているのがやっとだ」
「なるほど」、とぐらついた和真を片手で支えながら、床に突き立った切先を見て、沢木は頷いた。
「では、常套手段でいくしかありませんね。私が引き付けている間に、翡翠さまを連れて逃げて下さい」
「あんたは」
「立っているのがやっとよりは動けるでしょう。脇差を貸して下さい」
 そう話す間にも、また、狐が一匹、呑み込まれて姿を消した。
「取り込んで同化しているようですね」
 沢木が言うその先から、彼等の前に、巨大な一匹の獣らしき形が姿を現しつつあった。燃え上がる黒き炎の狐が、禍々しい鳴声をあげた。
 梁に背が届かんばかりの大きさで、一足、歩を進めただけで、身体の一部が千切れて、落ちた先の板を焦がす。太い尾が振り回される度、毒素が撒き散らされた。未だ取り込まれていなかった狐も、それに踏みつけられてすべて姿を消した。
 憎しみと言うには、余りにも禍々しすぎる悪意の塊だった。人が触れようものなら、あっという間に燃やし尽くされてしまうだろう。
 狐の長い鼻面が彼等を指し、口の部分が大きく開いた。あっ、と叫ぶ間もなく、黒い球体の塊が吐き出される。
 沢木は左へ、和真は沙々女を連れて、右へ跳んで躱した。
 逃げた先でも、続けざまに追われる。寸でのところで避けるはいいが、ぶり返す苦痛に和真は脂汗を浮かべ、呻いた。
「大丈夫だ」
 肩に添えられた沙々女の手に、やっとの思いで答えた。
 怨み濃い瘴気に当てられ、痛みを激しくした堂内の柱という柱、壁という壁が悲鳴の声をあげていた。今にも崩れ落ちそうな天井が、傾きを増していた。
 怨霊から逃げきれても、建物の下敷きになりかねない。
 それだけではない。
 倒れた燭台の蝋燭が炎を大きくして壁を舐め始めていた。
 現実の火に炙られようとも、怨霊と化した芳西には、毛ほども気にする様子はない。それどころか、いよいよ身を大きくし、勢いを増しているかのようだ。
 それは、深い恨み故か。
 沢木も和真から受け取った脇差で怨霊の隙を見て斬り付けてはいるものの逆に散らすばかりで、どうやら浄き刃にての直接的な攻撃さえも効かないようだった。
 長い鼻面が、和真達に向けられた。
『その娘を寄越せ……』
「誰が渡すか!」
『ならば、いっそ、共々に葬ってくれるわ!』
 かっ、と裂けた口が開かれた。
「頼む!」
 瞬時に和真は、沙々女の身体を沢木に向かって突き飛ばした。
  沢木に身体を支えられた沙々女の手が、和真に向かって伸ばされた。その手を取る事は許されず、和真はただ微笑んだ。
 叔父の最期もこんな気持ちだったのだろうか、と、ふ、と胸の内を過る。なんの感慨も抱かなかったが、悪い気分ではなかった。
 除ける気力も体力も失った和真は、その場で膝を落した。手を床について身体を支え、倒れはしなかったが、一歩も動く事ができなかった。


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