kumo


卅弐


 黒い瘴気の球が、目の前に迫った。その時、
『吽!』
 一匹の狐の霊が立ちはだかるように彼の前に躍り出た。
『オン キリカクウン ソワカッ!』
 獣の小さな身体が燃えるような白い炎を灯し、瘴気の塊を目前で散らした。
 おのれ、と憎々しげな唸り声ともつかない声を怨霊は響かせた。
『おのれ、狐風情が邪魔立てするか』
『不肖の弟子の不始末を片付けるは、師である者の務めである』
『貴様……雪按か!? 馬鹿な! 魂魄はすべて鬼にくれてやった筈!』
『己の不足も気付かぬ未熟な貴様に、我らが魂のすべてを穢す事などできぬ。潔く諦め、再び清き者として転生の時を得るまで地に還るがよい』
『おのれ、貴様なんぞに、邪魔させてなるものかっ! 我が望み、未だ潰えず!』
『……まだ分からぬか。命運尽きても尚、浅ましきその欲、いっそ憐れな』
 和真の前に立つ狐は、声も静かに言った。
『お若いの。ここは我らが防ぐ故、はようあの娘御を連れ、お逃げ下され』
 同じ狐でも、その姿は白く輝き、邪気はいっさい感じられない。先ほどの狐たちとはまったく違うものである事に和真も気付いていた。そして、それは彼の前の一匹だけではなく、怨霊を取り囲むように数匹の姿があった。
「あなた方は」
『嘗て、しがなき一介の僧であった者。あの者の師を名乗った事もござった。さ、はよう参られい』
「かたじけない」
 とは言え、身体の自由が戻るわけではない。
 と、その腕を取る者がいた。
「立てますか」
 沢木の肩に支えられ、和真は漸く立ち上がる。
「和真さま」
 沙々女の手も添えられた。
「ここは一旦、あれらに任せて、まずは外へ」
 火は盛んに燃え、堂内に籠る熱も高まっていた。崩れ落ちるのも時間の問題と思われた。
 よろけながらも戸口まで辿り着く。が、ぶ厚い瘴気がべったりと糊のように戸に張り付き、彼等の行く手を阻んだ。
 沢木が手を伸ばし戸を開けようにも、指先が触れた先から弾く音をたてて拒む。
 指を痛めたか、沢木は眉を顰めて手を引っ込めた。
 彼等の背後で、ごう、と炎が燃える音に似た響きがあった。
 和真が肩越しに振り返れば、怨霊を包囲する狐たちが白くその身を浮き立たせながら、真言を唱えていた。
『ダキニバサラダトバン ダキニアビラウンケン ダキニバサラダトバン ダキニアビラウンケン……』
 発する一言、一言が梵字を浮き上がらせ、光り輝きながら連なる鎖となって芳西の怨霊を縛った。
『おのれ、おのれ、この畜生ものどもめが……』
 既に人の身でない事も忘れたものの、悔しげな呻き声が合間に交じる。
 その時、あ、と沙々女が短い声をあげた。
「黒羽さま」
「倫悠?」
 と、その気配を感じるよりも先に、
「砕ッ!」
 掛け声と共に、目の前並ぶ戸の一枚が、内側に吹き飛んだ。
 ひょう、と音を立てて、風が中に流れ込むと共に呼びかけがあった。
「沙々女さんっ!」
 和真は思わず軽い笑い声をたてていた。
「遅いぞ、倫悠」
「その声は、和真か!? どうしてここに!?」
 暗闇より現れた友は、和真の姿を目にして驚きの表情を浮かべる。が、再会を喜ぶ間もなく、吼える声が轟いた。
 怨霊の身を縛める梵字の鎖は究極にまで締めつけられ、獣の形にも乱れを生じさせていた。
『雪按、許さぬ、許さぬぞ。貴様ら皆、灰燼《かいじん》と化してくれる』
 黒き獣の眉間より浮き上がった瘤が伸び、芳西の顔を作った。鎖の隙間をぬって、ろくろ首のようにそれが伸び、雪按の喉元にいきなり食らい付いた。
 その衝撃に、梵字の鎖にも乱れが生じる。
「倫悠、頼む! あいつを止めてくれ!」
 ようやっと外に逃れ出た和真の声に応じて、黒羽は刀を構えた。
 その身も無傷ではなかったが、全身から闘気が漲っていた。身の丈より数倍大きな怨霊を前にしても、頼もしくも怖ける様子は欠片もない。青白く光る刃に風を纏わりつかせ、相手を、ひた、と見据えた。と、その視線が僅かに外れたと思いきや、
「縄曲!」
 張り上げた声と共に、刀が振られた。
 弧を描くようにして、和真の前を風の渦が横切った。
 風は壁づたいに移動すると、炎を伴う帯となって、狐の怨霊を幾重にも取り巻いた。壁だけを這っていた炎が堂内全体に広がり、近くにいた和真たちも熱風に煽られる。そして、炎風は浄化の炎となって、未だ梵字の鎖を払いきれずにいた怨霊に襲いかかった。
 ごう、と炎ばかりではない音が轟いた。
「羽鷲くん、早く! ここは危ない」
 沢木の促しに、和真は肩を借りながら階を下り、建物よりより遠くへと足を運んだ。
 はっきりと響き渡る咆哮を耳にした。
「倫悠!」
「彼なら大丈夫です。早く」
 未だ、建物の傍にいる友の背を振り返りながら、和真はその場を一歩でも遠くと離れる。
 今や巨大な本堂の屋根からも炎があがっているのが見えた。辺りには焦げ臭い匂いと、霞ませるばかりの白い煙が広がっていた。
「斬!」
 黒羽の気合いの声が聞こえ、大きく板の裂ける音があった。
「倫悠っ!」
 刹那、和真達の目の前で本堂は一気に燃え上がり、地鳴りの音をたてながら崩れ落ちた。




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