kumo



「りゅうじんさま、今日もみんなをお守りください」
 小さな手が鳴らされて、幼い子供が手を合わせた。
「よくできたね」傍らに立つ女が、小さな頭を撫でる。「ちゃんとお参りしていれば、龍神様はいつも、よし坊の事を見守って下さるからね」
「おとうも?」
「そう、お父もきっと見ていてくれるよ」
 手を繋いで去っていくふたりを見送って、太吉は一歩前に進んだ。
 朝早いというのに、今日も龍神大社は参拝客で賑わっている。鈴を鳴らす音がひっきりなしに続き、拝殿前には人々が列を作る光景が、毎日のように見られるようになった。その代わり、街中で見られる僧侶の姿が目に見えて減っていた。
 無理もない。それまで漠然と信仰はあったにせよ、正に想像上のものでしかなかった龍神をまともに目にしたのだから、信じない方がどうかしている。しかも、その姿が現れた途端、あれだけいたあやかしが全て消え去ったのだから、それまで不信心を常としてきた者でさえ、毎日、社に通おうと思うに不思議はなかった。
 実を言えば、太吉もその口で、河中央より出でたその姿に、あんぐりと大口を開けて眺め呆けた揚げ句、よじ登った木の上から落ちてしまっていた。だが、それにしても、柔らかい土の上で怪我ひとつなく、これも龍神のお陰か、と雨でずぶぬれになりながら思ったものだ。少々、風邪をひいてしまったのは、余計だったが。

「君のお陰で奴等の所業も暴けて、沙々女ちゃんも助けることが出来た。本当にありがとう」
「いえ、あっしは……なんのお役にも立てなくて」
 すべての後始末が済み、漸く事が落ち着きをみせたのをみて、改めて挨拶に二丿隊の詰所を訪れた太吉は、深々と下げられる稲田の頭を前にして恐縮するばかりだった。
 結局、羽鷲と別れて後、雨にずぶ濡れになりながら、事が収まるまでその場より動けずにいた事を考えれば、何も出来なかったと思うしかなかった。
 その間に、羽鷲が命がけで沙々女を助け出したのだ、と聞かされた。沙々女はまったくの無事で、羽鷲は重症ながら命に別状はなく、治療を受けている最中との事だ。
「君はよくやってくれたよ。これは、些少だが受け取ってくれ」
 すい、と座る前に給金とは別に心付けが差し出された。懐紙に挟まれていたが、湧の四角い銭の形がみっつ浮き出て見えた。太吉にとっては、ふた月以上は楽に暮せる額だ。
「滅相もない。こんなに頂くわけには」
「いや、こんな程度で報れるとは思えないが、気持ちと思って受けて欲しい。これから先も何か困った事があれば、手助けさせてもらうよ」
「でも、白木さまからもこんな物まで頂戴して……」
 帯に挟んだ、先端が二股になった握り棒を太吉は見下した。二丿隊より先に、命の恩人であるその人に礼を言いに行ったその時に渡されたものだ。
「使う事があれば、是非、感想を聞かせてくれたまえよ」
 彼よりの礼の言葉を聞くのもそこそこに、三丿隊隊長はあれやこれやと立板に水のごとく、使い方の説明を始めた。その様子たるや、新しい玩具を得たこどものようで、太吉も閉口したものだ。
 稲田は笑った。
「まあ、それは彼の趣味のひとつだから、気にせず受け取っておくといいよ。危険があれば、それで身を守ればいい。あやかしには効かないが、刃を躱す手立てぐらいにはなるだろう」
「へぇ、まぁ、そうおっしゃるんでしたら」
 太吉は糸が巻かれた護身具の握り手を、掌でさすった。
 だが、こんな物を使わないで済むに越した事はない、と密かに思った。

 やっと、拝殿の前に立った太吉は、二度頭を下げて拍手を打った。
「今日も無事にお勤めを果たせますように」
 もう、護戈を羨む気持ちはなかった。もし、なれたとしても、色んな意味で彼には無理だという事が分かった。
 その代わり、今の仕事をきちんと出来るように、必要な時に本当に役に立てる人間になりたい、と思う。
 閉じた瞼の裏に、別れ際の沙々女の無事な姿が目に浮かんだ。

「ありがとうございました」
 俯く太吉にも、沙々女は頭を下げた。変わらぬ美しさで、思わずぼうっとなって、慌てて目を逸らした。その時、帯から下がる、鈴のついた五色の房が目に入った。これからは、滅多に会うことも叶わなくなるだろう娘を前に、太吉は思いきって声に出した。
「あの、お願いがあるんですが」
 その願いは、容易く聞き届けられた。

「あの人が、あの人たちが、これからも元気でいられますように。無事にお勤めを果たせますように」
 合わせる手の下から覗く握り手には、五色の房が下がっていた。
 袖にすれて、鈴が、ちりん、と鳴った。




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