kumo



「悔しいなあ」、と斜向かいに座る稲田が溜息を洩らした。
「結局、俺は何も出来なかったよ」
 かける言葉もなく、黒羽は黙って視線を下に落した。
 漸く、落ち着きは取り戻したものの事の余波は大きく、まだ、すべてが片付いたわけではない。だが、評定省の取り調べも一通り終り、稲田がこうして詰所に腰を落ち着けている姿を見るのも、久し振りの事だ。そして、ふたりでゆっくりと話すのも、隊長室でのやりとりがあって以来の事だろう。
 しかし、それはそれで黒羽にはきまずく、一体、どのような顔をしてどう会話してよいものか、悩むところだった。お互い切羽詰まった状態であったには違いないのだろうが、未だ残る蟠《わだかま》りをどうすれば良いのか分からないでいた。
 ちらり、と上役の顔を盗み見ても、以前と変わらぬ飄々たる様で、その心の内は読めない。
 そう言えば、とその稲田が茶をひとくち啜って、独言のように言った。
「今回の騒動を一番、楽しんだのは峰唐山だったんじゃないかって話があってね」
「楽しんだ?」
 不謹慎ともとれる言葉に、思わず反応をすると、
「うん。白木も作った武器の試し斬りなんかをしていて、川中くんを泣かせていたそうだけれど、峰唐山の夜刀が出た時のはしゃぎようは大したもんで、結局、ひとりで仕留めたみたいなもんだったらしい」
「はぁ、やるとは思っていましたが、やはり、凄いですね」
「それで、護戈の中でも、化け狐に惑わされた隊士が一番多かったのが、四丿隊だったりしたんだけれどさ。峰唐山は、そいつら、全員、伸しちゃったってよ」
「それは……隊士達は、大丈夫だったんですか?」
「いや、骨折っちゃった奴もいたそうだよ。だから、今、うちよりも動ける人数が少ないって話でさ」
「それは、何か違うような。そう言えば、安井が言っていましたけれど、峰唐山が僧侶のふたりを素手で殴り飛ばすところを見ていたそうです。偶々、出くわして、どうしようかと思った時に、横からいきなり現れて、問答無用で殴る蹴るだったらしいです。お陰で彼等は助かったそうですが、相当、怖かったと言っていました。僧侶より峰唐山の方が、数倍、人間離れをして見えて恐ろしかったそうです。その後、龍を斬りかかろうとするのは、流石に数人がかりで止めたそうで、大した騒ぎだったようですよ」
「そりゃあ、さぞかし見物だったろうねぇ。でも、俺には、絶対、真似出来ないなぁ」
「誰にだって無理でしょう」
「そうだよねぇ」
 はぁ、と稲田は、また、溜息を吐いた。
 猫背になって茶を啜る上司の姿を見ているうち、黒羽は咽喉の奥からこみあげてくるものを感じた。少し辛抱をしてみたが、ついに吹き出してしまった。
 怪訝な顔をする稲田に、黒羽は笑いながら言った。
「いや、配属されたのが二丿隊で、本当に良かったと思います」
「そうかい。実は、俺もなんだ」
 そう答えた咽喉も、く、と鳴った。
 それからふたりは、声をたてて笑い合った。
「そういえば、あの子、和仁口くんはどうなりましたか?」
 一頻り笑った後、黒羽の問いに、稲田は、ああ、と答えた。
「詳しくは知らないが、何とか命は無事だったようだよ。心の傷は残ったようだけれどもね」
「そうですか」
「でも、まだ若いからね。完全に癒えないにしても、前に進む為の努力は出来るようになるさ。それこそ、峰唐山もついているし」
「そうですね」
 確かに峰唐山ならば、こどもの心の内の傷も力任せに吹き飛ばしそうにも思える。子育てなど向かなさそうにも思えるが、隊長格だけあってそれなりの人望もある事からしても、存外、上手くいくのではないかとも思える。
 なんであれ、導く者がどんな者であれ、学ぶ事はある。そして、ついていく者次第でそれも増え、いつか追い越せる日が来るかもしれない。
 手に持っていた湯飲み茶碗が、床に置かれた。そして、背筋を伸ばした稲田は黒羽の方に身体を向けると、真面目な表情で言った。
「今度の事では、随分と辛い役目を負わせてしまった。よく、堪えてくれた。よく、応えてくれた」
 下げられる頭に、黒羽は、はい、と応えた。
「君には感謝しているが、もし、今後も俺の下にいるのが辛いと思っているのなら、他の隊への異動も手配しよう」
 それには、いいえ、と首を横に振った。
「もう暫く、隊長の下で勤めたいと思います」
 黒羽は答えた。

 怨霊の狐を倒し、崩れる本堂に潰されるより早く逃げ戻った彼に、沢木は言った。
「やはり、君は護戈衆以外の何者でもない。見事です」
 沢木の言った、『強い』、という意味。『護戈衆以外の何者でもない』、という意味。
 本人に尋ねてもはっきりした答えを貰えるわけでもなく、未だ黒羽には分からないままだ。それでも、このまま続けていれば、その内、分かる日が来るような気がした。何としてでも彼に人を斬らせまいとした、稲田の気持ちの在り処も知る時が来るかもしれない、と思った。そして、
「お菊ちゃんが黒羽さまに、『櫛をありがとうございました』と。『幸せ者です』と伝えてくれと」
 近付く彼に、そっ、と答える沙々女の無事な姿に目頭が熱くなった。そして、菊から頼まれた、と言って、鈴のついた五色の房を手渡された。
 彼の記憶にも、菊の帯締めに下げられていたそれは残っていた。夕暮れの道で、数歩後ろをちりちりと音を鳴らしながらついてきていた娘の気配が、思い起こされた。
「ありがとう」
 手に柔らかく、黒羽はそれを握った。
 龍が現れたすぐ直後に姿を見せた菊の導きがなければ、彼はこの女性と友を助けられず、一生、後悔をしたに違いなかっただろう。
 ありがとう、と声には出さず、二度と見える事のないだろう少女の面影に言う。
 その彼の前で、沙々女は意識を失って地面に倒れる和真に膝枕をしていた。静かに黙って、見守るように傍にいるその姿に、こどもの頃の面影をみた。
 もう暫く、この女性を見ていたい、と思った。そして、その視線の先にあった友とも、もう暫くの間は肩を並べていたい、と思った。

「そうかい」、と正面から見つめる稲田の瞳が和らいだ。
「そう言って貰えて嬉しいよ。ありがとう」
「いえ」
 もう暫しの間。
 来るかも知れない、道を分かつその日まで。
 脇に置いた刀の柄に結びつけた房に、目をやる。
 仲間を呼ぶかのような鳶の鳴声を、黒羽は聞いていた。




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